2016年9月18日日曜日

憂鬱の研究 fr. a

 白井には、好きだった一節がある。

 「神秘的で美しい響きを持ちながら、それでいて難解である詩句を前にして、慄える焦燥と緊張とに満たされて、静穏で晴れ渡った花園への扉を開くための鍵を、この辞書の内に見い出すに、いくら急いてみても間に合わない。ハンスにはしばしばそのように思われるのであった」。
 花園とは、なにもホメロスに満ちているわけではない。文字によって刻まれた、あるいはこれから刻まれるであろうすべてが繚乱する。霞にも紛うこの花畑は、祝福に満ちている。扉を開くものに向かって燦然と輝く春の自然である。見渡し尽くせないほどの色があり、名付け切れないほどの種があり、数え切れないほどの花がある。その花の一つ一つが永遠の輝きであり、また一つ一つのそれぞれが無限なる花園なのである。ヘッセがハンスにせしめたように、私たちもまた、その花園への扉を開かねばならず、さらには一つの花に包蔵された花園への扉を開かねばならず、その花園の中の一つの花に包蔵された花園への扉を開かねばならない。そうして無限に花園の中へと入り込んで行かねばならないのだ。私たちにとって、鍵は辞書に潜むひとつひとつのことばでしかない。鍵を手に取り、穴に差し込めば、ガチリと重い音を立てて、扉が軋みながら少しずつ開いてゆく……。

 文学的、あるいは神話的、あるいはさらに言ってしまえばたんなる時代遅れな夢想でしかない。夢想でしかなかったのである。いくらラテン語の辞書を捲くれども、そのことばはどれも埃をかぶってしまっている。鍵を差し込んで扉を開いてみても、その先に広がるのはやはりまた紙に染みたインクの黒ばかり。書を抱えてのそりのそりと歩く人間の横を、書などとうに打ち捨ててしまった人々が光の如くに通り過ぎてゆく。通り過ぎざま、いつまでも紙を抱えて千鳥足なのを、指さし、嘲笑する。ああ、ここは私の生きるべき時代ではなかったのか。生まれてくるのが早すぎた人間が天才と称されるならば、生まれてくるのが遅すぎた私は何と称されるべきなのだろう。そのように彼は思った。その答えを彼は知っていた。だが答えが聞こえるより先に耳を塞ごうとする。「我は凡ならず」と叫び、打ち消そうとする。そしてその都度、耳を塞いでいても聞こえるくらいに、あるいは彼の叫び声よりも大きな声で「お前は凡人だ」と返されることを彼はよく知っていた。そして、その叫び声の、最も大きな声主が彼自身であることも、彼はよく知っていた。その声が微かにでも聞こえ始めた時、あるいは聞こえるだろうと予感した瞬間、彼は自らの、もうひとつの、研究対象に出会うのである。
 憂鬱のもとに広がる世界の彩度の低さよ。辞書はもはや楽園への鍵束としての役割を失い、手に取られる各々の語は、おのれの心の内にのみ広がる世界を語り、再構成するばかりである。彼はいちいちその語を拾い上げた。« aufero », « cesso », « ipse », « iris », « rarefacio » そして « reddo » と続いた。彼は耐えきれなくなって、使い古され背の弱った辞書を手に取り、引き裂こうとした。しかし、それができないことは彼自身がよく知っていた。「平凡な」はラテン語で « vulgaris » ということを知った。

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