2016年4月1日金曜日

書簡集 10

 四月一日

 君も春の手紙のたびに桜のことを報告されて辟易しているかもしれない。君は少しそういうところがある。春といえば花、という安直な思考を嫌うだろう。しかし、そうした安直な思考が悪いわけではないはずだ。少しばかり桜の話をさせて欲しい。

 風にあおられて、咲いてすぐに散ってしまった桜の一輪がある。道行く際によく目の当たりにする枝の、先端に咲いたやつだ。私の目線とほぼおなじ高さにあるので、いつも気にかけていたが、このあいだ嵐のような夜があって、翌朝見てみると、もう散り落ちてしまっていた。あれほど気にかけて愛でていたが、アスファルトに散らばったどの花弁とも見分けがつかない。こうして、知らなかった花々のうちに埋もれてしまった。やがて茶色く萎れ、気づけばもうなくなってしまっていることだろう。来年同じ場所に咲いたとしても、それはもはや私が気にかけた花とは違う。そのことが、なんだか悔しいように思えるのだ。

 そういえば桜の木のそれぞれにも、やはり個体差があるのだろうか。私などは咲けばどれもおなじ桜の木なのだが、木によって鳥の寄り付き方が異なっている。小鳥は花を花柄からちぎり、蜜を吸って捨てる。そのとき、花はくるくると宙を漂い落ちる。小鳥に人気な木の花は、花弁一枚一枚が舞うのではなく、花が一輪一輪踊るのである。これはなかなか面白い光景で、私も今年までこうした景色があることを知らなかった。ところで花にとって、自らの蜜が甘く、鳥に吸われ、一輪の形をとどめたままくるくると落ちてゆくのと、時を経ながら花弁を一枚一枚落としてゆくのでは、どちらが幸福なのだろう。数的に同じ花が無いことを思えば、考えも花によって異なっていてもおかしくはないだろう。花のそれぞれが、自らの思い通りに地に伏すことができることを望むばかりである。

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