2016年6月21日火曜日

「実在」ではないどこか

したがって、これらの諸根拠の結論を認めよう。〔つまり、その結論は以下のとおり。〕まさに固有な特質 ratio によってであるように、〈この〉石に内在する措定的な或るものによって、下属する部分へと分割されることがそれに相反するということは必然である。そして、その措定的なものは自体的に、個体化の原因であると言われるところのものであろう。というのも、個体化ということによって、私は、分割不可能性ないし、分割可能性への相反を理解しているからである。(Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 57).
個別者とは何か。どこにいるのか。ふだん私たちが目にするものすべては個別者である。世界は個別者によって満たされている、という思考は、(一部の哲学者を除き)多くの人びとによって受け入れられることであろう。

 中世において広く議論された「個体化の原理」を考える際に、「個別者とはなにか」ということを考えておくことは、Gracia も指摘しているとおり重要なことである。「個別者は述語の束である」と考える哲学者は、おそらく「個体化の原理は質料である」と考える方向へは向かわないであろう。その哲学者にとって「個別者とはなにか」ということが、彼の個体化の原理の探求において重要な前提であると考えるのはおそらく正しいことであるといえる。

 上に引用したドゥンス・スコトゥスは、個体化を「下属する部分への分割への相反」を個体化として考えていた。「下属する部分への分割」とは、類を種へ、種を個別者へと分けるような分割のことである(詳しくは「スコトゥスと「二重の否定」説」を参照)。スコトゥスにとって個別者とは「人間という種に属するソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはなく、また人間という種に属する別の個別者であるプラトンから区別される」という例で表されるようなものである。ここを捉えれば、先にリンクした記事においても述べられたことであるが、個別者はこのような「二重の否定」(厳密に言えば、ヘンリクスに帰されている説が「二重の否定」であり、スコトゥスはそれを修正したしかたで受容しているのだから、「修正二重の否定」説と呼べる)を伴うものである。仮に「個別者」を「「修正二重の否定」説によって記述されるようなもの」として考えられるとしよう。そのとき、スコトゥスはそのような個別者を析出させる原理を個体化の原理としなければならないだろう。それは「述語の束」でも「質料」でもあり得ない。この問題に関するスコトゥスの特徴はこの点に存すると考えられる。

 上記引用において、スコトゥス自身は「ソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはない」という事態が個体化である、と考えている。このことは更に考察されるべきである。
範疇の体系に自体的に属するところのものはみな、その体系には決して属することの無いもの全てを除いて、その範疇の体系の内に在る。......それゆえ、本質の概念規定のもとにあるものを劃然と考察することで、類において最高のものが見いだされるように、中間の諸々の類、そして種や種差もが見いだされる。さらにそこでは、現実的な現実存在が全きしかたで取り除かれることで、最下位のもの、すなわち単一なものが見出される。このことは明証的に明らかである。というのも、「人間」が形相的に現実的な現実存在を含まないのと同様、「〈この〉人間」もそうだからである。(Ibid., q. 3, n. 63).
スコトゥスは、動物を人間へとする分割と、人間をソクラテスやプラトンへとする分割との間に根本的な差異を措定していない。そのことを考えると、「動物―人間―ソクラテス」のそれぞれは、なんらか共通の存在論的ステータスを有していなければならない。このことに関して、二通りの見解が可能であろう。すなわち、(1) 「動物」や「人間」といった類や種が、実在するソクラテスの方に引きずられ、何らか「実在的」というステータスを帯びることになるか、或いは (2) ここで言われているソクラテスが、必ずしも実在しているソクラテスではなく、類や種といった概念へと引きずられているか、このいずれかである。上記引用によれば、(2) の方針を採っているように思われる。スコトゥスが思考している「個別者」は、必ずしも実在を含んでいるわけではない。こうした「個別者」をどのように位置づけるか。類や種が論理学的志向 intentio logicalis として、すなわち概念として位置付けられることを考えて、仮に「論理学的」と位置づけることにする。

 論理学的個別者を考えることは、彼の個体化の原理についての学説に再考を迫る。個体化が「下属する部分への分割への相反」であり、下属する部分への分割というのが、類を種へ、種を個別者へ、という仕方で、「論理学的」なターミノロジーを用いて語られることを考えれば、個体化を「実在」の領域に閉じ込めてしまうことには問題があると考えられる。彼の個体化を考えるならば、ここでは「論理学的」と名付けた、実在ではないどこかを想定する必要があるだろう。そこを「論理学的」と名付けることが正当であるのかどうかもまだ疑われることであるが。

 一般に、ある哲学者の個体化の原理を考察する際には、その哲学者が個別者に関してどのような見解を有しているのか、ということを見ることは有益である。それどころか、必要不可欠であるとも思われる。「個体化の原理」ということばこそはひろく流通していたものであるが、少なくとも中世では、そのことばをどう解するかということにおいて、一致があったわけではない。個体化の原理の探求が、どういうことがらに関わっており、その当の哲学者の体系においてどのように位置付けられるか、ということをみる際、その哲学者の個別者についての理解を併せて参照することはおそらく重要なことであるだろう。

2016年1月11日月曜日

スコトゥスと「二重の否定」説

 昨年の夏にちょっとした発表の機会を頂いて、そこでドゥンス・スコトゥスの『命題集註解』Ordinatio 第二巻第三区分第一部第二問を中心にして、スコトゥスにおける個体化の原理の特徴を描き出すことを目指した。現在第一問から第七問までの翻訳をすこしずつ進めている。最近思い出したように訳を再開し、第二問が終わったので考えたことを、前回発表したことを交えつつ、すこしメモ程度に書いておこうと思う。

 Ord. II, d. 3, p, 1 は七つの問題に分かれている。第一問から順に「質料的実体はそれ自身によって、あるいは自らの本性によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体はある肯定的で措定的なものによってそれ自身で個別的であるか」、「質料的実体は現実的な現実存在によって個別的、ないし他のものを個別化する根拠であるか」、「質料的実体は量によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体は質料によって〈これ〉であり、個別的であるか」、「質料的実体は、本性を単一性へと自体的に規定する或る存在性によって個別的であるか」、「諸々の天使が同じ種において複数在ることは可能か」と問われる。前にもここに書いたことがあるが(「ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き」。夏の発表もこれを踏み台にしている。)、第二問においては、ガンのヘンリクスの説として「二重の否定」説が検討される(ヘンリクス自身の個体化の原理についての議論はまたいくらか問題があるが、ここでは触れないことにする)。

 「二重の否定」説は、(1)「分割の否定」と (2)「他のものとの同一性の否定」という二つの否定のことを指している。(1) についてだが、分割といっても、あたかもスイカを六つに割るような分割ではない。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるような、事物の本質に関わる分割のことが考えられている。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるのと同じ分割のしかたで「人間」がソクラテスやプラトンに分割されるとスコトゥスは考えている(『形而上学問題集』第七巻第十三問)。(2) については直観的に理解できるし、前にも書いたのでここでは説明を省く。「分割されず、他のものではない」という二つの否定が個体化の原理である、というのは比較的理解しやすいことであるが、スコトゥスは「しかしながら、それでもこの立場はまったく余分であり、問いに答えていないと思われる。というのも、その立場が措定されても、依然として同じ問いが残るからである」と切り捨てている。

 スコトゥスの批判がいかなるものであったかについては、細かい議論を要するのでまた別の機会に譲ることにしたいが、今回翻訳をしていて気になった箇所があるので、そこを引用しておく。

      Ad argumentum 'in oppositum':
      Licet assumptum sit falsum forte (de quo alias), tamen si verum esset quod 'unum' significaret formaliter illam duplicem negationem, non sequitur quod non habeat aliquam causam positivam per quam insit ei illa duplex negatio, - nam et unitas specifica pari ratione significaret duplicem negationem, et tamen nullus negat entitatem positivam esse in ratione entitatis specificae, a qua entitate positiva sumitur ratio differentiae specificae. Et istud est argumentum bonum pro solutione quaestionis et pro opinione, quia cum in qualibet unitate minore unitate numerali sit dare entitatem positivam (quae sit per se ratio illius unitatis et repugnantiae ad multitudinem oppositam), maxime - vel aequaliter - erit hoc dare in unitate perfectissima, quae est 'unitas numeralis'. 
 「対立する」論拠に対して。
 採用されたもの[=異論の大前提]がおそらく誤っているとしよう(このことについてはまた別の機会に語ることとする)。そうだとしてもしかし、もし、「一」が形相的にあの二重の否定を表示するであろう、ということが真であるとしても、〔その「一」が〕それによってその二重の否定がそのものに内在するところの措定的な或る原因を有していない、ということは帰結しない。実際、同じ議論によって、以下の様に考えられるからである。つまり、種的一性は二重の否定を表示するであろうが、しかしながら、何ものも、そうした措定的存在性から種差の概念規定 ratio が取られるところの種的存在性の概念規定の内に措定的な存在性が在ることを否定することはない。そしてこの論拠こそが問いの解答としても、見解としても優れている。というのも、数的一性よりも小さいいかなる一性においても、(自体的に、一性の、そして反対する多数性に対する相反の根拠であるところの)措定的な存在性が在りうるのだから、とりわけ、あるいは同等に、「数的一性」であるところの、最も完全な一性においても、こうしたことが在りうるであろう。(Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 58, 下線は引用者による。)
 発表では、スコトゥスがガンのヘンリクスの「二重の否定」説を、個体化の原理としては拒否しつつも、それに修正を加え、個別者が有する個体としての性質、つまり「個体性」の理解としては生き残っていると考えた。かなり直観に依拠した議論になってしまっていたが、それをスコトゥスのテクストから読むとしたら、この箇所だろうか(細かい文法事項に疎い筆者は、接続法でも、未完了形になっていることに少し不安を覚える)。ここは種的一性と平行的に語られており、理解もしやすい。

 以上で確認したように、第二問において、スコトゥスが個体化の原理としての「二重の否定」説を拒否しつつも、他方で個体性としての修正「二重の否定」説(細かい議論を省いたため、どういう動機でどのような修正が施されるべきであったかについては触れられていないが)を受け入れていると考えるならば、修正「二重の否定」説が、「個体」概念を根本のところで形作る基礎の一端となるわけだから、第二問は(スコトゥスが Ord. において個体化を語ってるのが Vatican 版で 130 ページあるうち、ほんの 8 ページだけという)その分量的な小ささとは裏腹に、非常に重大な位置を占めていると言える。先にブログに書いた第四問についての理解も、第二問を踏み台にしているところがある。
 あるいは、第二問同様、個体化の原理としては否定された諸々の見解は、修正されて個体性(或いは、個体性とまでは言えないが、ある意味で「個体」理解に強く関与するような概念)として、スコトゥスによって取り込まれているかもしれない。この点はスコトゥスの個体化の原理について、とりわけ Ord. を読む上で注意されるべきではなかろうか、と考えている。