2015年9月26日土曜日

ライプニッツ『個の原理について De Principio Individui』に関する覚書

 ライプニッツの学士論文であるところの『個の原理について』De Principio Individui の読書会が一通り終わったので、スコトゥスと関わるいくつかのことを書き留めておく。

 版によって微妙に構成が異なってはいるものの、(おそらくどの版も)二十六の節からなっている。スコトゥスへの批判に、その大部分、すなわち第十六節から第二十六節までが割かれている。
 主要な論点は、「このもの性」Haecceitas と「形相的区別」distinctio formalisである。いくつかの議論は、普遍に関する立場に関して、そもそも前提が食い違っているということから出てくるものである(たとえば、第二十節に「種は形相や質料によっても、附帯性やその他のものによっても特定化されない。したがって、 「このもの性」が残される。反論。いかなるものによっても、種は特定化されない。というのも、種は精神の外には全く無いからである」といったような議論がある。第二十節・第二十一節はこれと同様の議論がいくつか挙げられている)。

 ライプニッツによる批判で重要な論点は次のようなものであろう。以下に、『個の原理について』第二十四節を引用する。
III. もし形相的区別が認められるのならば、このもの性は滅ぶ ruit. ところで前件は真である。従って云々。証明を行う前に、この区別について何らか述べられねばならない。ところでそれは Stahl., Comp. Metaph., c. 23, Soncin., l. 7, q. 35, Posnaniensis, I. Sent., d. 34, dubio 64 で見て取られうる。
 この区別は一般に、事象的区別と観念的区別の中間のものとしてスコトゥスに帰される。そういうわけで、彼の追随者たちは形相主義者と言われる。この区別によってスコトゥスは、神的なものにおける諸属性やペルソナ的諸関係が神の本質から区別され、事物の何性が事物間で、そして認識されたエッセにおける神から区別され、また上位の述語が下位の述語から、類が種差から、本質が現実存在から区別されると考えた。Rhada はこの区別を次のように説明した。すなわち、〔この区別は〕基体においては同一化されつつ、他方で知性への秩序においては相違する二つの事象性ないし形相性の間にあり、観念的区別からは異なっている。というのも、観念的区別は、その区別以前に現実態における精神の作用を要求するからである。だが、この〔形相的〕区別が現実に用いることにおいて適用されたとき、スコトゥスに追随する人々は、驚くほどに曖昧で一貫していない。というのも、もしこのもの性が種から、知性を動かすということが判明に適合したという点でのみ異なっているのであれば、このもの性は、なんと悪しく個体化の原理へともたらされるのであろうか。というのも、それは知性から切り離すことによって探求されねばならないのだから。したがって、彼らのことばのもとでは、より多くの何らかのことが隠されているのは必然である。それは何であれ馬鹿げている。というのも、知性が切り離されることで異なっているとするや否や、それらは互いに同一化されないからである。
 スコトゥスは本質とこのもの性の間に形相的区別を敷いている。知性によって認識されるのは本質の側のものであり、それとは形相的に区別されるこのもの性は、人間知性によっては認識されない。それでは、スコトゥス主義者たちは人間知性の対象とは成り得ないそれをいかにして探求しているのか。人間知性の対象とは成り得ないものを原理として措定することに問題は無いのか。そのように議論されていると考えられる。この点に関しては、このもの性の認識に関する問題から、スコトゥス的なアプローチをとって再反論を試みるべきであると思う。もちろん、この箇所のライプニッツに記述は、Rhada に依っているところが大きい。私自身、スコトゥスの形相的区別に関して明確な理解があるわけではないのだが、Rhada の説明の「〔この区別は〕基体においては同一化されつつ、他方で知性への秩序においては相違する二つの事象性ないし形相性の間にあり」sit inter duas realitates seu formalitates in subjecto identificatas, diversas vero in ordine ad intellectum というところが少し問題があるような気がする(そしてライプニッツの批判もこの点によせられていると思われる)。私の雑駁な理解では、形相的区別は、いわばこの二つの層のさらにその間に措定されるようなものであると思われる。すなわち、知性との関わりにおいて異なっているということは、事物の側でも、基体において同一でありつつ、その中で相違している(山内先生の訳語を借りれば)存在実質の次元の話であるのではないのだろうか、ということである。しかし「知性が切り離されることで異なっているとするや否や」simulatque enim praeciso intellectu differunt という記述は、知性との関わりという次元ではなく、事物の側での区別を指しているのだろうか。いずれにせよ、ライプニッツ自身がそれほどことばを費やして語っていないせいで、難解となっている。

 さしあたりスコトゥス絡みでやるべきことは、
  • Rhada の形相的区別の説明は、スコトゥスによる記述から十分に導けるものであるかどうか。
  • 導けるのならば、ライプニッツによる批判に対してスコトゥスはどのようにこたえるべきだろうか。
  • 導くことができないならば、Rhada の説明のどこがまずいか。またそのうえでライプニッツのスコトゥス批判に関してはいかに対処すべきか。
やることは多い。

 『個の原理について』の前文訳をいま用意している。どこかに載せられたらとても良い。できなかったらネットにアップロードでもするつもり。

 いろんな方が訳の検討を手伝ってくださるそうです。大変恐縮です。どうもありがとうございます。

2015年9月23日水曜日

書簡集 8

 九月二十三日

 東京でもちらちらと彼岸花の咲いているのを目にする。そろそろ金木犀の甘い香りも、住宅街に漂い始めることだろう。昼は穏やかで短く、夜は音もなく続く。季節は目に見えるあらゆるものを変えてゆく。コンクリートの色も。そして目には見えないものも。アスファルトの響きでさえも。

 秋の夜は冷たい。冬の夜とはまた違った冷たさをしている。冷たいからこそ、君に宛ててこんな手紙を書いているのかもしれない。冷たい空気にあてられて縮こまったこころは、こういう腐敗が始まる直前のにおいがすることばが好きなのだ。それは僕の自然本性から来るものかもしれないが、そうなのだ。

 温度の変化によって大きさが変わるのは物質だけではないみたいだ。こころ、魂、霊魂、精神、そんないろいろな呼ばれ方をするその当のものもまた大きさが変わる。それは実験によって明らかだ。
 ピアノを一台用意して、好きなように鳴らせばいい。試すように、いろんな和音を弾いてみるのだ。すると、季節によって、時間によって、さらにはこころが受け入れているさまざまな情念によって、こころが最も共鳴する音は違ってくる。七度の音程がいまとても心地よいのだ。ファとミ。不思議と響く。