2015年4月21日火曜日

書簡集 5

 四月二十一日

 最近遅れがちで申し訳ない。僕がだらしない人間であることを知っているだろう。そういうことだ。次の手紙の返事も遅れるだろう。かんべんしてほしい。そのぶん君も時間をかけてゆっくりと長い手紙でも書いてくれればいい。ただし長すぎるとまたそれに見合った分だけ返事を書こうとしてまた遅れることになる。まぁ君も暇ではあるまい。

 今年はじめての春嵐がやってきた。気圧が下がってすこし頭痛もあるが、雨風の凄まじいのは好きだ。子供じみていると言われるかもしれないが、風のなる音も雨の吹き付ける音もよい。そんな夜にこそ、傘を持たずして、桜の様子を見に行くのが良いのかもしれない。厚く丸く咲いた八重桜も、今日の風は堪えただろう。それでも残っているだろうか。不安と、どこか高揚する心があることを知る。
 傘を持たずに雨の中を歩くのは、気取ったようにも見えるがそうではない。これがなかなかできないことだ。君はできるだろうか。私はかつて小学校からの帰り道で、(夏の夕立のころだったか)雷に怯えて傘を投げ捨て投げ捨てしながら家まで帰ったことがある。もちろんずぶ濡れになった。教科書もいくらか濡れてしまっていた。中学校にあがり、あるいは高校生になり、そして大学も卒業した。重要な書類も抱えていることもあれば、水に濡らせない機械を持ち歩いていることもある。年をとるにつれて、そうして雨に濡れることを避けねばならないようになる。自分自身はいくらか雨に濡れてもよかろうが、そうした物ものを濡らすことはできない。そうして体の成長とともに差す傘も大きくなり、体とともに大事なものを抱えて濡らさないように歩くようになる。大人になるとは、傘を差すようになることなのだ。
 寒暖の波も終わりを告げ、陽気な日々の始まりの合図である春嵐、黄砂や花粉に煙る日々を洗い流すかのような春嵐は底抜けに明るいものでなければならない。そうして私たちもまた子供にならねばならない。昼に花を見ては笑い、夜に月を眺めては泣く子供にならねばならないのだ。しかしそれはもう全く無条件な子供ではない。嵐の中佇むことを止めるような人がそばにいないものにのみ許された、孤独な子供にしか、春嵐に濡れることはできない。
 乾いてあることが良いこともあれば、濡れなければならないときもあるはずだ。そのひとつがこの時であるはずだ。

2015年4月2日木曜日

春の憂鬱

 桜の咲くころ、ぬるい陽の光を浴びては、心の底から朗らかに笑うことのできない春のことを思う。春は、その陽気の裏に、いつだって憂鬱を湛えているのだ。そうして人々と付き合ってきたのだ。底から自分を見せることなく。なぜ私にはそれが分かったのか。それは、私は春と同類であるからである。私もいつだって憂鬱を心に秘めている。だからわかるのだ。春は、いつも悲しんでいる。どんな人でも心に憂鬱を抱いてはいよう。しかし、彼らが気づくのは、地が熱を持たず、静かに街灯が抗う夜、その冷えきった雨の底にはほんの僅かに漏れでたその憂鬱である。彼らは暗さに、寒さに、そしてまた自分自身の憂鬱を春というスクリーンに投影しているに過ぎない、そのなかで幾許かの春の憂鬱に気づくのである。春は、青空の中でこそ、最も憂鬱であるのである。しかし、人々がそれを許していない。春が憂鬱であることを許していないのである。彼らはいつでも陽気であることを望んでいる。花が咲き、ぬるく、明るい世界では、何者も陽気でなくてはならないのである。ああ、それならば。春なんて必要ないのだ。春はいつでも、ぼんやりとした憂鬱を、ことばにならない憂鬱を、その陽射のなかで提供してくれている。或いは人々は、その憂鬱に知らず知らずの内に苛まれているのかもしれない。それゆえに、陽気にならねば、躍起になっているのかもしれない。
 さきごろ止んだ雨に濡れた桜の花びらを一枚、木からちぎり取ってみれば、幸せそうな薄桃色。縦に割いては二つ。桜の木も割かれた花弁も、また春の一日。