2015年3月17日火曜日

realitas 概念についての覚え書き

 中世の哲学には理解し難い用語が山のように出てくる。その中の一つが realitas である。これは「事象性」とか「実在性」とかといった訳が与えられることが多い。英語に直訳すると reality となるが、中世哲学の文脈ではそのまま「リアリティ」と訳すとよくわからないことが多い。いくつかの文献の中で出会われた realitas 概念について、すこし纏めておこうと思う。

 山内志朗『存在の一犠牲を求めて』におさめられた「スコトゥス哲学・用語解説」における「事象性 (realitas)」の項には次のようにある。
……事象 (res) の抽象名詞だが、そのニュアンスは翻訳不可能である。「事象成分」「実在性」などといった訳語もある。「実在性」と捉えると誤解しやすい。実在性やリアリティという含意はあまりなく、そういうものの手前にあるものが realitas である。「事象を構成する規定性」、平たくいえば「性質」のことである。……
「ある事象 res を構成する規定的部分 」のように理解可能であると思われる。スコトゥスの実際の語り口をすこし見てみよう。以下では「存在性」 entitas ということばが使われているが、八木雄二によれば entitas と realitas はほぼ同じ意味で使われる(八木雄二『スコトゥスの存在理解』、付録 p. 35, 註 118 参照)。
複合体が本性であるかぎりにおいて、(それによって形相的に〈このもの〉となる)個的存在性を含まないように、質料も「本性であるかぎり」(それによって〈この〉質料となる)個的存在性を含まず、また、形相も「本性であるかぎり」はそうした存在性を含まない。 (Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 6, n. 187).
スコトゥスによる、質料的実体の個体化をめぐる議論のほぼ結論部で提示される一節である。ここで述べられている内容に関しての詳細な説明は省くとして、簡単にいえば、「個的存在性を含んでいるものは個別者である」という文脈で語られている。そのとき、個的存在性は個別者という事象 res を構成する部分であると考えられることになろう。

 最近読んだ本で、すこし気になったところも纏めておく。
たんに「思考に由来する〈もの〉」にすぎないものは決してこの世界に現実に存在せず、現実に存在しうる可能性もない〈もの〉である。そのような〈もの〉は知性の対象とはならず、ただ想像力にのみ依存する虚構であり、「現実性」 (realitas) を持たないのである。また、そのような〈もの〉は有でもない。すなわち、「有性」 (entitas) を持たないものである。(加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』、 p. 227. )
ここでの用法は、やや「リアリティ」に寄っているように思われる。出典も併せてみておこう。
... res sive aliquid, sic consideratum ut nihil sit ei oppositum nisi purum nihil, quod nec est nec natum est esse, neque in re extra intellectum, neque etiam in conceptu alicuius intellectus, quia nihil est natum movere intellectum nisi habens rationem alicuius realitatis. (Henricus de Gandavo, Quod. VII, qq. 1 et 2 (ed. G. A. Wilson, 1991, pp. 26-27). )
このヘンリクスのテクストは加藤雅人、前掲書における付録 p. 86, 註 66 より引用した。以下に筆者による訳を付しておく。語彙レベル・概念レベルで様々に誤りがあろうので、そのときは指摘いただきたい。
〈もの〉ないし或るものは、次のように考察されたものである。すなわち、純粋な無 purum nihil を除いては何者もそれに対立しないものである。その純粋な無とは、在らず、在らしめず、知性の外なる事象においても、さらに或る知性に属する概念においても〔無い〕。なぜなら、或る事象性という根拠 ratio 無くしては知性を動かすということは決して生じないからである。
ここでの ratio をどう解するかによってかなり文意が変わりうるであろうが、上で引用した加藤 op. cit. の論脈に寄せて、とりあえず根拠と訳した。 ここで〈もの〉といわれる res は端的な無、純粋な無と対立する概念である。そして、加藤によれば、純粋な無として理解されるのが、ヘンリクスによる〈もの〉の三つの区分のうち「思考に由来する〈もの〉」であり (Ibid. pp. 225f.), その具体例として「金の山」とか「山羊鹿」とかといった「虚構的概念」の例が挙げられている。こうしたものは realitas を持たず、また知性の対象にもならない (Ibid. p. 226.). ヘンリクスの枠組みにおいて realitas を有するのは、加藤によれば、「理念に由来する〈もの〉」と「現実に存在する〈もの〉」である。後者については文字通り現実に存在するものであり、前者は何性 quidditas と呼ばれ、スコトゥスの枠組みに引き寄せた時、共通本性 natura communis と呼ばれるものと解釈してよいと考えられるものであろう(何性に、何らかの仕方でその存在の根拠を付与しているというのはやや興味深いと思われる)。realitas 概念を考える際に、「思考に由来する〈もの〉」と「理念に由来する〈もの〉」との境界を考えることは有益なことであるだろう。

 「思考に由来する〈もの〉」の例を見てみれば、「虚構的」と言われつつも、それを「理念に由来する〈もの〉」と切り分けるうまい視点は見つけ難い。「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念は、端的に矛盾しているわけではない(こうした事柄について、哲学史のあちこちで様々に語られているのであろうが、不勉強と貧弱な記憶力のせいでこれを書いている際にはうまい解決があったかどうか定かではない。ヘンリクスのここの記述を理解するために、いま二つの解釈を有している。 1. 「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念には、実は矛盾が含まれているのだ、という解釈。例えば、「山羊」と「鹿」は種が異なるのであるから、それら両者の種の特徴を備えた一つの種は考えられない、ということ。とはいえ、これはあまりうまくいっていないように見える。 2. なんであれ、「思考に由来する」と言われるものはそもそも realitas を有さない。たとえば、鉛筆やハサミといった概念も、それが「思考に由来する」限りにおいては realitas を有していない。ただし、鉛筆やハサミといった概念は、私達が現実世界において出会うことのできる個物から得ることができるので、そうした側面からそれらの realitas を十分に考えることができる、ということである。いずれにせよ、ヘンリクスのテクストに基づいて理解されねばならない……のだから読まねばならない!)。
 ヘンリクスが「理念に由来する〈もの〉」は可能的に存在すると述べているといわれることとあわせて考えると、「思考に由来する〈もの〉」に realitas が無いというのは、それが可能的にであれ存在することはないということになろう。ここでは、 realitas が「存在の根拠」のように働いているように思われる。あるいは純粋な無に対抗する力のようなものか。ここではたしかに「リアリティ」の響きが感じられるような気がする。はじめに引いた山内による理解の枠から、すこしはみ出るような部分もあるように思われる。

 雑駁にいろいろと書き並べてみたが、 realitas 概念はやっぱりよくわからない。

2015年3月8日日曜日

書簡集 4

 三月八日

 朝は空から降ってくるが、夜は地の底から湧いてくるようである。
 汽車の旅も、それほど長旅ではないもののやはり疲れる。いつになっても慣れない。車窓からみる景色はかろうじて私を楽しませる。君と話して、平生の私は心を揺さぶられることがなくなってきたようだ、と思われる。個別的なものに学知は成り立たないとアリストテレスもいうが、しかし、楽しいものはいつだって個別的なものに対してだということを忘れてしまっていたようだ。

 時間がほんとうに平等かどうかは分からないが、夜はほとんど平等に訪れる。汽車の車窓からふと見ただけの山にも、畑にも、神社にも、そしていくつもの大きな街にも、それぞれの地の底から夜はひたひたと溢れ出てくる。だれもいないところでさえ夜に浸される。誰一人としてその夜に沈むものがいない地でさえも、夜がひとしく訪れるというのは、なにやらことばにし難い心地がある。寂しいとも違う、悲しいとも違う。どこか心が高揚するようで、同時に何かが沈み込んでゆくような。夜の図書館をめぐるような気持ちにも似ている。

 どのようなかたちであれ、花が咲き、うぐいすが鳴いてしまえば春なのだから、仕方がないのだろう。