2015年1月28日水曜日

書簡集 3

 一月二十八日

 暖かい日が幾日か続いたと思えば、また物悲しく寒い。寒すぎるのも暑すぎるのもよくない。穏やかな心地で過ごしたい。

……

 畢竟、人とは塵芥のようなものである。くだらないことを言っていると思うだろうが、まあそう思っていてくれ。人は塵芥なのだ。
 君は道端に落ちているゴミをみてどう思う。ゴミとは存外汚らしいものではない。たいていは紙くずであったり空き缶であったり煙草の吸殻である。君が行く道の上にも、いくつかゴミが散っていよう。気がつけば一瞥くらいくれるだろう。だがそれだけだ。ゴミとは、道の上の異質であって、いくらか人の注意を引けども、ただそれだけなのだ。
 人もそうだ。世界は君を中心にしてあろう。私を中心にしてあるように。そこには疎らにであれ密にであれ、人が漂っていよう。君は彼らすべてにいちいち目を向けはしないだろうが、君の視線は或る人の顔の上を滑り、また或る人の髪をなで、或るの人の胸を刺し、或る人の足を通ってゆくだろう。ところが君は彼らをいちいち拾いあげるような真似をするだろうか。ソクラテスという奇特な人が古代のギリシアにはいた。彼は道行く人を拾い上げていたようだ。だが君はどうだ。私はどうだ。心底どうでもいいだろう。街に溢れかえる人々は、紙くずであり、空き缶であり、煙草の吸殻に過ぎないのだ。存外汚くはないのだが、わざわざ触れたりはしない。

 一月が終わろうとしている。君の仕事も大詰めといったところだろう。私のくだらない手紙を読んでいる暇があるのなら、いくらか仕事をすすめたまえ。君の仕事が終わるまでは手紙の返事も必要ない。来たところで、私のほうも返事を書く余裕はない。君の成功を祈っている。

2015年1月10日土曜日

ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き

 スコトゥスは Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 4 の冒頭で挙げられるボエティウスの説、すなわち、相異なる複数のものは同時に同じ場所を占めることができない、ということから、それを個別者相互の区別の根拠とする説を論駁する。だが、ボエティウスの説は直観にかなったものであるといえるし、哲学史上、このような思考をもって個別者の区別がなされることも多かっただろう。この論駁はどのようにして可能になるのだろうか。
 Ordinatio における個体化の原理に関する議論において、スコトゥスは附帯性一般を個体化の原理から退ける。附帯性一般とは、質、量等々の実体に後続するカテゴリーを指していると考えてよい。したがって、その議論からでは当然、附帯性として扱われる「位置」が個体化の原理足り得ない。実体は附帯性の基体であり、基体であるかぎりは「これ」であって、附帯性が在る前にはかならず実体は個体化されていなければならないからである。ではこの実体の先行性による「附帯性は個体化の原理ではない」という議論をいかに考えるべきか。そのことについていくつか思ったことがあるのでそれを書き留めておく。

 そのために、まず同第二問において批判される、ヘンリクスによる「二重の否定」による個体化の説を紹介する。「二重の否定」とは、「或る〈この〉ものが〈あれ〉でない」という〈あれ〉に対する否定と、「〈これ〉が分割されない」という〈これ〉に対する否定とからなる原理で、「〈あれ〉でなく、分割されない」というかぎりで〈これ〉は〈これ〉であり、〈これ〉以外のものではない、ということから個体化の原理を捉える説である。
 これに対してスコトゥスは、雑駁にいえば、「〈これ〉が分割されない」ということによっては個体足り得ない、と指摘する。どういうことかといえば、個体とは分割に矛盾するようなものでなくてはならず、単に「分割されない」ということだけでは、そうした「分割に対する矛盾」は引き出せないからである。そこで例に挙げられるのが「盲目な人」である。「盲目な人」にとって「視ること」は否定されているが、「盲目な人」に「視ること」が矛盾するわけではない。手術によって視力を取り戻すことも可能であろう。「盲目な人」を個別者に、「視ること」を分割に置き換えればスコトゥスの論旨は理解できよう。
 ところで、二重の否定説への批判は、もう一方、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉でない」という方にも向けられる。そこでの議論を簡潔にまとめれば、「否定によってソクラテスが在り、否定によってプラトンが在るが、おなじ性質の否定によってなぜ二つの区別された個別者が得られるのか」というものである。否定はその構造上「〈これ〉は〈あれ〉でない」という性質しかもっておらず、それではソクラテスとプラトンとの区別には充分ではない、という(「〈これ〉が〈あれ〉でない」という性質によって区別するならば、「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」ということによって相互に区別できそうであるが、おそらくスコトゥスのいいたいのは「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」とがそれぞれソクラテスとプラトンとに帰属するような場がさらに求められる、ということであろうか)。
 ところで、『形而上学問題集』の個体化論を扱う第七巻第十三問においては、後者の議論、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」ということに対する批判は別段加えられることはない。それは、〈これ〉と〈あれ〉とが相異している場では、〈これ〉は〈あれ〉でないというしかたで「同一性の否定」が介入せざるを得ないからであろう。もちろん上段落の最後に、括弧内で補足したように、スコトゥスは単に「同一性の否定」では満足しない。スコトゥスにおいては、最終的に「分割への矛盾」と「同一性の否定の根拠」とにまで至らねばならない。したがって、「〈これ〉が〈あれ〉でない」という否定に関しては、そうした結果をもたらす根拠を追求することがスコトゥスの個体化論の探求であったのである。そういう意味で、ヘンリクスの立場をより厳密化した態度で探求を行っていたといえるのではないだろうか。

 さて、冒頭の位置の相異の問題に戻るが、スコトゥスによる批判は、この「二重の否定」説への批判の、とくに後者、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」という否定への批判と同様の構造を持っていると言えるであろう。すなわち、現実に在るものは、実際に〈これ〉が〈あれ〉でないのと同様に、〈これ〉と〈あれ〉という二つの相異なるものが同じ位置を占めることは確かに不可能である。このことは間違いがない。しかし、スコトゥスにとっては、位置が個別者との関わりで、「〈これ〉が〈この〉位置にある」とか「〈あれ〉が〈あの〉位置にある」とかいうのには、それぞれの位置が〈これ〉と〈あれ〉とに帰属するような場が求められねばならないのであろう。二つのものがそれぞれの位置を占め、同じ位置を占めることが無いというのは、いわば「同じ位置の否定」でしかなく、スコトゥスにとっては、その否定を可能たらしめる「同じ位置の否定の根拠」にまでゆかねばならない。この意味で「同一性の否定」も「同じ位置の否定」も、スコトゥスの個体化の原理のいわば「結果」でしかなく、〈これ〉と〈あれ〉という二つのものがそれぞれとしていわば「区別され始める」ようなラインに立つものではないかぎりで、「二重の否定」や「位置の相異」は個体化の原理としては否定されるべきものであったのであろう。