2014年9月25日木曜日

或日の話

 ある朝、目が醒めると、思ったよりも早い時間だった。布団が温い。それに対して空気は冷たい。窓を開け放したまま寝ていたようで、一晩中夜風が部屋に吹き込んでいたらしい。いくらか湿り気を持っていた風に晒されて、わずかばかり齧ったせんべいは湿気ってしまっている。口に放り込んで噛んでみても、もう心地よく砕けることはない。飲んだ酒量に比して酔いの残りは少なく、体を起こしてみてもふらりとせず、頭もしゃんと働いている。記憶は曖昧なところも多いが、口のあいた酒瓶を眺めていると、二つばかり思い出すことがあった。まずひとつに、昨夜はただ一人、馬鹿になったように高い酒をひとりでくらっていた。はじめのうちは美味い美味いと思ってはいたものの、一升瓶も半分に差し掛かった頃には寝ているのだか起きているのだか、飲んでいるのだか吐いているのだか分からなくなっていた。平生の貧乏性のせいで、最後まで飲んでしまわないと勿体無いと思ってしまったのだろう。酔いが体中をめぐるなかで、一条の光の下に思い出したのだ。私はどうせ明日死ぬことになっているのだ、と。そうして私はそのまま万年床に倒れこんだ。そう、私は今日死ぬことになっているのだ。こころの奥底で、深まりゆく秋の風よりも冷たいものが凍みてゆくような気がした。死ぬ、ということばが冷たいのではない。今日死ぬ、というのが底しれず冷たいのだ。不安でも恐怖でもなく、ただ冷たい、冷たい。いっそ体も冷やしてしまえ、と薄着のまま出歩くことにした。最後に一杯、と蛇の目猪口になみなみ酒を注いだ。端からぽたぽたと雫がこぼれ落ちる。一息に口の中に流し込むと、温くなった酒は口の中で弾けるように香った。そのままスルリと手から滑り落ちた猪口は小さな音を立てて二つに割れた。色も無く、清澄な透明の酒だったな、と思った。鍵もかけずにマンションの階段を下ってゆく。交番に詰める警察官が交差点を眺める眼差しも、工事現場の大男の仁王立ちの様も、万事日常であり、みな日常を闊歩していた。コンビニでオレンジジュースを買って、歩きながらストローですすり、なくなったら紙パックを握りつぶした。気に入っている傘をくるくると回して水滴をあちこちに散らす。萎れ始めた彼岸花をちぎり取り、余った酒にでも活けようかと思った。白っぽく煙るような雨の滴る日だった。

2014年9月2日火曜日

書簡集 1

 これからいくつかの手紙をここに纏めておこうとおもう。これらの手紙はすべて、私の友人 M から私宛に送られてきたものである。もちろん、彼や私のプライベートに関わるようなことを含んだ手紙はまっさきに排除したし、それだけでなく、あまりに雑多なことや、少々下品な表現を含んだりするもの、あるいはそれら以外の理由で公にするには不適切なものや、読んでいてもつまらなさそうなものも排除した。多くの手紙を交わし合ったので、それでも多くのものが残った。彼の手紙は、私にはどこか面白いのだ。文章が上手いわけでも無いし、なにか発見のあるようなものでも無いだろう。物語が潜んでいるようには思えないような、ふらふらとした足取りをしたものだ。しかし、どことなく日常から浮かび出たような感じがするし、どことなく潤っているのだ。それを私以外のだれかとも共有したかったのだ。
 本当ならば、彼の手跡や便箋となった紙、インクの色までそのまま見せたいのだが、私や彼の名前が、当然伏せられること無く書かれているし、なによりあまりにも彼そのものを公にしてしまうような気がしたので、このような文字で公開することにした。


  八月三十一日

 夏の終わりも近くなってきた。君は今日が夏の終わりなどとは言わないだろうな。世の愚なる人どもは今日をもって夏を終わりとする。愚なる人々は、いつまでも小学生の気分なのだろう。暦をもってして、天文をもってして、教わったことをもってして決定してしまう。私は、世の人共の、未だ小学生なるを愚と言うのではない。自ら感じず、自ら考えず、自ら今日の日を夏の終わりと断ずるのではないが故である。秋なぞ、そのように目に見えるものではない。風だ、などと言うつもりはないが、カレンダーを剥がすかのように秋が見えることも無いだろう。
 君は最近どういう夢を見るのだろうか。私は、煙草を吸う夢をよく見るのだ。もちろん煙草を吸ったこともないし、吸おうと思ったこともない。煙草を吸うような金などそもそも持ち合わせていない。そういうことを友人に話してみたら、夢で見たことは無意識的な欲求だのなんだのとつまらない講義をしてくれたよ。どうでも良いが、私はあの無意識とやらを説明に持ち出してくるのはどうも気に食わない。どうでも良いことを書いてしまったのなら、もうすこしどうでも良いことを続けよう。友人によれば、夢でみたことは無意識やら深層心理やらでは欲求しているという。そうすると、私が死んだり殺されたりする夢を見るのは、これも無意識や深層心理での欲求なのだろうか。私が芯から善いことを追求する人間ならば、あるいはそうかもしれない。古代の昔には、人間にとって最も善いことは生まれてこないことだが、次に善いことは生まれてからすぐに死ぬことだ、といわれていたそうだ。そうすると、確かに私は夢で見たことを欲しているのかもしれない。馬鹿馬鹿しい。或いは、別の友人によると、夢で見たことの反対を欲しているという。なるほど確かに死んだり殺されたり、煙草を吸ったりする夢ならば反対を欲することもわかる。とはいえ、私もたまには淫靡な夢を見ることもある。こちらは、明確に私の欲求に現れてくるのだが、私はこれの反対を欲しているのだろうか。これもまた馬鹿馬鹿しい。夢と現実とを何らか強い繋がりをもって結びつけようとするのが馬鹿馬鹿しいのだろう。あるいは適宜「夢で見たことを欲している」論法と「夢で見たことの反対を欲している」論法とを使い分ければいいかもしれない。それで何になるのだろうか。
 どうも「反対」というのは都合がいいイメージを持たれやすい気がする。白と黒、空と大地、生と死、朝と夜……。こうした対はいくらでもあげられるだろうが、それぞれ相対するものでありつつ、イメージに於いて、言葉の響きに於いて、或いはその本質において共通性を常に持っているような気がしてしまう。何らかの尺度の上になければ、そもそも反対ということを考えられないのは自明であるが、そこでいう尺度が、おそらく大きな部分を占め過ぎているのだろう。まずもってその尺度が認識され、そののちにその尺度の上の概念と、その反対の概念が捉えられる。もともと統一されていたもの同士なのだから、そうした対に区分されたとしてももとの統一が念頭にある。あるいは単に、「反対の」といった時に漢詩のような対句が強く印象されすぎているだけだろうか?

 ここまで書いて寝た。翌朝目を覚ましてから読み返すと、馬鹿が書いたような文章が並んでいたが、それも愉快なのでそのままにしておいた。返事に困りそうな手紙を送ってしまう前に一度寝ておいてよかった。来月にはそちらに行こうと思う。本題はこっちだ。だが、それだけだ。昨日は変に多くの字を書いてしまったようで、今も手がすこし疲れている。では、体調を崩さぬように。