2014年8月27日水曜日

断片、手紙

 空気が灰とも青とも決めがたい色に染まる時間に目が覚めた。昨夜の雨の名残がある。夏の終わりが感ぜられた。秋の空気というほど清澄な感じはしないが、なおそれでも空から滴る雫の音は秋色を帯びているように思われる。

 一通の手紙を受け取った。この時代に、まさしく筆を執って手紙を出す人もいるらしい。宛名は丁寧な楷書で書かれている。ほんのりと橙色のさす、やや気の早い色をした紙に、深い墨色の字が映える。差出人は、封筒には書かれていない。ほかの郵便物には手もつけず、やれやれ、年寄りを急かすでない、とひとりごちつつ飛び石を渡る。

 ペーパーナイフを取り出して、紙の繊維を一本一本丁寧に切り分けていくように封筒を開いてゆく。幾枚かの便箋は、今朝の空気のような色をしていた。最後の一枚だけを抜き取って、署名を見れば、かつての教え子であった。

2014年8月15日金曜日

叙景の窓 たゆたう

 小さな丸い金魚鉢のなかで、赤と白の錦を着飾ったあなたたちは、いったい何を考えているのでしょう。窓の外の世界はあまりにも広い。あぁ、どこまでも泳いでいけたなら。世界を泳ぎ尽くしてしまいたいのでしょうか。それとも、何も考えていないのでしょうか。少なくとも私は、窓の中と外とを自由に行き来できるという点で、彼女たちに対して優越感のようなものを抱いてさえいた。

 祭りの夜店にいくと、ふとこういうことを考えてしまう。
 夜店の金魚たちは、すこし弱らせてあると聞いたことがある。それでも、そこですくわれて、金魚鉢で何年も生きている金魚の姿も見たことがある。どちらがほんとうかはわからないけれども、大きな水槽に移し替えられた大きな金魚は、丸い鉢の中を泳いでいるよりも滑稽に見えた。それがほんとうに金魚だったかどうかはわからないけれども。

 浴衣の男女、夏風に揺れる電灯、虫の声。
 十何年前からこのお祭りは変わっていない。両脇に森が広がる十数段の階段を登った先の、ふだんは静まり返ったふるぼけた神社の周りに、この日だけ村中から人が集まってくる。むかし、私も母に手を引かれてこの階段を登った記憶がある。一段登ると人の声が大きくなる。もう一段登ると威勢のいい夜店の声がはっきりと聞こえる。登るにつれてお祭りが近くなってくる。母がしっかりと手を握っていなかったら、私は駆け上がっていっただろう。
 お祭りでは綿菓子も食べただろうし、かき氷も食べただろう。たしか母のたこ焼きも摘んだ覚えがある。それでも、いちばんはっきりと覚えているのは金魚掬いだ。金魚が好きで、見ているだけでも幸せだったが、なんとか捕まえて飼ってやろうと思ったのだ。母にせがんで一回やらせてもらった。隣の男の子がどんどんと捕まえていくのを脇目に、私はどの金魚がいいか、まず選ぶところから始めた。たまにいる、赤と白の金魚が綺麗で、それを狙おうとした。ほかのよりも大きくて難しいと言われたが、挑戦するだけしてみようと思った。今思えば、あれは客寄せ用の見せ物だったのかもしれない。私も挑戦したが、紙はすぐに破れてしまった。たった一度で紙が破れてしまったことがショックだったのか、金魚を掬えなかったのが寂しかったのか、私はその場で大泣きしてしまった。なだめる母もお構いなしに、だ。
 そんな私を見かねてか、お店の人が金魚を二匹くれた。ふつう取れなかった子には一匹だけくれるそうなのだが、あまりにも泣きじゃくるので特別に二匹くれた。少し顔の怖いおじさんは、優しく微笑みながら「秘密だよ」と言った。二匹のうち一匹が、例の赤と白の綺麗な金魚だったせいかもしれない。私はすぐに泣き止んだ。そしてそのままにこにこ笑って、母に手を引かれて家に帰った。
 母親は事ある毎にこの話をする。高校に入学するときも、大学に入学するときも、成人式の時も。この調子だと結婚式のときもみんなの前で言われそうだ。
 結局二匹の金魚は、うちの丸い金魚鉢で飼うことになった。私が毎日餌やりをした。水を替えたり、鉢の掃除もした。それでも、一匹は、真っ赤なやつはすぐに死んでしまった。その時にも私は泣いていただろう。庭の隅に埋葬してあげた。私はこんな狭い鉢の中で死んでしまうのは可愛そうだ、と言ってもう一匹の赤と白を河に放ってやることにした。それが良かったのかはわからない。もしかしたら、大好きな金魚の死から目をそむけたかっただけなのかもしれない。それは今でもわからない。

 この赤地に白の浴衣は少し子供っぽい、と母に言われた。これがいいの、と、金魚が取れずに泣き喚いた私は、今も変わらず駄々をこねてそれを着て一人でお祭へゆく。夏の音を奏でる下駄を履いて、階段を登ってゆく。からころと、一段ずつ。すこしずつ気分が高まってゆく。お祭りだけじゃない。私もあのころとちっとも変わっていない。あの頃は母が駆け行こうとする私の手をつなぎとめていた。今は誰が私の手をつなぎとめている?

 赤い提灯、玉砂利のざわめき、人いきれ。
 騒々しいのに苦痛じゃない。暑苦しいのに不快じゃない。お祭りは楽しさであふれているようだ。なのに綿菓子を買うほど子どもでもないし、くじを引くほど無邪気でもない。屋台から屋台へと駆けまわるほどの元気もない。心だけが楽しさへと逸るものの、体が全くついて行かない。何が私をつなぎ止めているの。こころの窓から外を望む子どもの私は、あっちへいけ、こっちへいけというのに、私はただかき氷を買って座り込んでいる。何人もが右の屋台の方へと行き、何人もが左の方の屋台へと行った。かき氷の底の方はシロップが薄かった。
 かき氷を食べ終えて、ストローで作ったスプーンを咥えたまま、しばらくどうするか考えていた。そうだ。金魚掬いをやろう。私は急いで立ち上がり、すこし人もまばらになった境内を早足で行く。玉砂利をざくざく言わせながら、誰もいない金魚すくいのお店に向かった。

 お店の人は優しい顔をしていた。あの時とは違う人だし、金魚すくいの上手な男の子もいない。お金を渡して、青いプラスチックでできた器具を受け取った。すっとしゃがんで、ゆっくりと器具を水に浸すと、紙はさっと色が変わってゆく。懐かしい。あの時に戻ったような気もする。
 金魚は、弱らせてあるだなんて冗談だと思えるくらいにすばしっこかった。できることなら、あの時の男の子にコツを聞きたい。おろおろとあちこち手を出そうかと悩んでいるとき、私のような着物を纏った間抜けな奴が一匹、ふらふらと私の前に現れた。隙を逃さず掬い上げる。紙の上ですこし暴れた時はひやひやしたが、それでも私に掬われてくれた。水を張ったお椀に移してやると、また何事もなかったのように泳ぎだした。
 わたしは、この一匹でいいといって、青い器具を返した。ビニール袋に入れられたそいつは、ぱくぱくと口を動かすだけだった。ビニール袋の金魚鉢の中で、あなたは一体何を考えているの。

 気がつけば、また私はさっきの場所で座り込んでいる。知っている人は誰もいない。あちこち駆け回ろうとしても、どうにも動けない。楽しい空気に包まれているのに、離れているようで。そこにいるのに、部屋の窓から遠くのお祭りを眺めているようで。無邪気に何もかもを忘れて、どこまでも泳ぐように駆けまわるような歳でもなくなってしまった。少女のままでいたいと願う私は、もう少女じゃない。
 周りが騒がしくなるほど、私の気持ちは口を閉ざしてゆく。階段を駆けのぼってゆく少女を脇目に、私はゆっくりとお祭りから離れてゆく。一歩足を下ろすたびに声は遠のいてゆく。目の前には夜の田舎だけがある。振り返れば、提灯の明かりと笑い声がある。私は変わってしまったのだろうか。からころと鳴る下駄も、夏の夜も、ビニール袋に入れられた金魚も、何も答えてくれない。

 だれもいない川原は真っ暗で、少しこわかった。下駄を脱いで、そっと流れる水に足をつけてみた。ぼやけた夏の空気とは全く違って、しゃきしゃきとして冷たい。川底はごつごつとした石が多い。転けてしまわないように気をつけてほどよく深いところまで行く。行く川の流れは思ったよりも速い。私はビニール袋の口を開け、そのまま逆さまにした。水と水がぶつかるがした。間抜けに口をぱくぱくしていた金魚はもうどこかへ泳いで行っだだろう。上流へか、下流へか。
 金魚を見送った私は、その場で座り込んだ。腰のあたりまでが水に浸かる。川の勢いに押されそうになりながらも、私はそのまま上体を傾けた。息を吸い込んで頭まで水へ。体を起こして、ぼんやり口を開けて、空を見上げると、ほっそりとした月が浮かんでいる。赤と白のすこし子供っぽい浴衣が、代わる代わる流れる水の中で柔らかくたゆたうのを、月が優しく照らす。
 立ち上がると、冷たい浴衣が肌に張り付いて気持ち悪い。浴衣がびしょびしょなのを、両親にはなんて説明しようか。風が通り抜けるたびにすこし寒い。

 私はもう金魚じゃない。からころと下駄を鳴らして歩いてゆく。