2014年3月31日月曜日

「神」と「神さま」との違いについて

 せんじつ友人と伏見稲荷大社を参拝した折、神さまの姿を見ることができたのなら、という話をしました。私は一度も神さまの姿を見たことがありません。一体どういう姿をしているのでしょうか。

 私たちの持つ神さまの観念は、やはり人をもとにしているでしょう。『古事記』において伊邪那岐が黄泉の国で見た伊邪那美の姿の描写からは、人の姿を容易に想像できるでしょう。
頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、……。(倉野憲司校注『古事記』)
ここには明らかに人の姿が現れています。神は人の姿をしていたのでしょう。

 しかし映画『千と千尋の神隠し』では、ひじょうに様々な姿形をした神さまたちが現れます。そして私たちは、おそらく、そうした神さまの描き方にもとくに違和感を持つことは無いでしょう。例えば、お米の神さまが米粒に手足が生えたような姿をしていたとしても、それが人参であったとしても茄子であったとしても、それほどおかしいとは思わないでしょう。それでも、雨を降らせる神さまも雷をならす神さまも、人に近い姿をしているように考えてしまうでしょう。

 「神」と訳されるのは、英語の god をはじめとする語で、古典ギリシア語の theos やラテン語の deus に遡りうることばたちでしょう。キリスト教の神観念を見てみる前に、古代の興味深い断片を引用してみましょう。
しかしもし牛や馬やライオンが手を持っていたとしたら
あるいは手によって絵をかき、人間たちと同じような作品をつくりえたとしたら,
馬たちは馬に似た神々の姿を、牛たちは牛に似た神々の姿を描き,
それぞれが自分たちの持つ姿とおなじような
からだをつくることだろう.
(内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集 第一分冊』クセノパネス、断片十五)
ここに見られるクセノパネスのことばは、神を人間に似せた形として表象することを批判するものとされています。私たちの自然は、神を自分に似たものとして表象し、描くものであるのでしょう。

 スピノザは『エチカ』において、神を次のように定義しています。
定義六 神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである。(スピノザ、工藤喜作・斉藤博訳『エティカ』)
いっきに神の性質が変わります。私たちはここで、『古事記』に見たような神さまの姿を放棄せねばならなくなってしまいます。 そもそもこれは同じ「神」ということばで語ってしまってよい対象なのかどうかから疑ってかかるべきかもしれません。あるいはもっとひろく、キリスト教の神はどのようなものだったのか。
神に対する「知性的な愛」を持てるとしても、神には想像可能なところはないから、神に対して「感性的な愛」を持てるとは思われないからである。だからこそ哲学者達は、キリスト教を介してでなければ神を愛せないと確信している。というのもキリスト教は、「神が自らを低くする (Dieu s'est abaissé) 」「受肉の神秘」を信仰させることによって、神を愛する方式を示しているからである。(小泉義之『兵士デカルト』、下線は筆者による。)
 神そのものは肉体を持たず、それどころか想像の可能性が一切欠けている。私たちの世界にはもはや定位していないと同時に世界のあらゆるところにある。神とは存在そのものなのです。存在そのものとして考えられる神は、もはや『古事記』の神ではありません。「ある宗教において、人間以外の存在者ないし存在、とくに世界や人間たちを創造したとして語られるもの」という形でしか神と神さまの連関は保たれていません。類似的であるだけで、同じ言葉で括られるべきものではないように思われます。そのために私は、人間として表象されたものを「神さま」とし、キリスト教のように感性を超越したような対象を「神」としました。『兵士デカルト』の引用部分で語られたように、神は「自らを低く」しなければ、私たちと触れ合うことはできないのです。単純に言うならば、「神さま」と「神」とは位置づけられている高度において大きく異なっているのです。「神さま」は肉眼でも十分見ることのできる高度にいますが、はるか高みまで抽象された「神」は、知性という望遠鏡でも届かないのです。私たちと神の間にある無限の高みを有限へと切り取り、あるいは神を「産み落とす」のがキリスト教なのでしょう。
 「神」と「神さま」との違いは、その抽象性の高度でしょう。それは決定的な違いであって、おそらく「おなじもの」と語ることは難しいのではないでしょうか。