2014年11月23日日曜日

個別、これ、あれ

 肩肘はらずに、いくつかのことをぽろぽろとこぼすだけでもいいのかもしれない。

« sed unitatem signatam (ut 'haec'), .... » (Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 4, n. 74)
そうではなく、(「これ」として)指し示される一性を……。
« igitur nullo tali est formaliter 'haec substantia', hac singularitate, signata. » (ibid. n. 77)
したがって、そうした〔附帯性の〕いかなるものによっても、実体は形相的に、この単一性によって、すなわち指し示されることによって「この実体」とはならないのである。
指をさして「これ」と言うことのできるもの、「これ」と「あれ」は違っているということ。たとえば「この鉛筆」は「あの鉛筆」とは違う。間違うことはあっても、それらは違うものでなければならない。「この人」と「あの人」がたとえ似ていたとしても、その人達が決しておなじ人ではないように。

 スコトゥスはそうした「これ」と「あれ」の差異の原理を付帯的なものには認めていない。あの人は背が高くて、顔かたちが良くて、声がどうで知性がどうで、云々。こうしたことは他の人との区別の最終的な根拠にはならないのである。顔がまったく同じであっても、彼らは区別されている。ほんとうに?
 人は同じであってはならない。モノは同じであってはならない。動物は同じであってはならない。このミケはこのミケで、あのタマとは違う。ライプニッツが拾い上げた二枚の葉は、たとえ似ていても同じではない。区別できるところが一切ないところまでいって、モノは同じであるといえる。同じものは、実在の次元にはなにもない。
 こぼすだけでは何も言ったことにはならないと、書いてしまってから反省した。

 すこし別な話。

« quia non est intelligibile quod idem generet se (etiam in divinis persona non generat se). » (ibid., n. 110)
というのも、同じものが自らを生成することは理解不可能であるからである(さらに神的なものにおいても、ペルソナは自らを生成しない)。
事物が「自己原因」であることは理解不能であるとスコトゥスが批判した箇所であるが、デカルトやスピノザはこの批判をどう乗り越えたのか。スコトゥスからデカルトまでに流れた時間は長い。