2014年10月22日水曜日

距離、近さと遠さ

 すこし日があいてしまった。呆けながらもいくつか本を読んでいた。卒業論文の執筆を始めている。四年間は短い。部分は全体よりも小さい。ゆえに、この冬はさらに短い。

 距離があるというのは幸せなことかもしれない。距離の構造が入っているからこそ、私達は二つの間の距離を測ることができる。私と太陽の距離は測ることができる。私と、誰かの距離も、ものさしを継ぎ合わせれば、たとえ遠くとも。
 比喩的な意味においても、距離は考えられる。私と、中世後期の哲学という舞台で活躍した彼はおよそ 600 年の隔たりを持っている。同じ尺度の上に立つことができるから。何かと何かの距離を測ることができるのは、私とあなたとの間に、なにかある共通の尺度、もっといえば共通なものがそなえられているからである。長さであり、時間であり、はたまた言語、人種、性別……。緑色の文字を見るとき、私もまた距離を感じ、同じ尺度の上に立っていることを思う。誰かと声を交わす時にもまた。

 哲学のことを少しだけ。
 私は中世スコラ哲学のことを卒業論文で扱っている。大学でデカルトを読み、授業でスピノザを聞き、友人たちとライプニッツを読んだ。あるいは家に篭って、今年の夏が盛り始める前に訳が出たジルソンのトマス・アクィナスについての研究を。彼らの思想において、私には神と被造物の距離が異なるように思える。トマスについては、その著作に触れたことが無いので大きいことは言えないが、デカルトもライプニッツも、強い反実仮想であれ「私が神になってしまう」ような事態を想定している。距離がある。トマスについては、その基本的な思想しか述べられないが、存在するものは「在りて在るもの」である神からその存在 esse を分有するかたちで在る。あるいは、在るかぎりで共通かもしれない。だがトマスによれば、それは類比的にあるに過ぎない。それでは、「存在それ自身」と規定される神と、その存在を分有している存在するものの距離や如何に?

 近づきすぎてはよく見えない。かといって離れすぎてはよく分からない。

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