2014年2月28日金曜日

芸術作品への「良い」という評価をめぐって


Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,
Im dunkeln Laub die Goldorangen glühn, ...
(Johann Wolfgang von Goethe, Mignon)
知っていますか、あの国を。そこではレモンの花が咲き誇り、
暗い葉の影に隠れて黄金色のオレンジが輝いています……

 美しい風景が描かれている。ここに書かれたことばによって私たちが表象するのは色鮮やかな黄色、深い緑とそれを溶けこませる黒、そしてその黒のうちから燦々と煌めく金色とも形容される橙色。次の詩行を読まずとも、この二行からはすでに穏やかな風が吹き、和やかな緑の豊かな大地が目に映る。実際この詩は次のように続く。
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht, ...
穏やかな一脈の風が真青なる天より吹ききたり、
ミルテは静かに座り、月桂樹は高く聳える……

 この詩が表現する思想を、私たちは「良い」と言って評価するだろう。私もこの詩の描く世界が非常に「良い」と思う。ドイツ詩の鑑賞は、必ずしもその詩の思想のみではなく、詩行の韻律を踏まえてその詩の思想をみるものだそうだが、ドイツ語に親しみの薄い私には詩行の韻律から現れる音楽性が 明確ではない。しかし、ドイツ語に慣れ親しんだ人と私との間に、感じる「良さ」の違いがあるのかもしれない。そもそも「良さ」とは一体どういう事態なのだろうか。幾つか「良さ」の特徴をみてみよう。

  1.  ある鑑賞者が「これは「良い」」と評価するとき、それは他者も同様の評価を下しうる。それと同時に、その反対の評価も可能である。一つの作品をめぐり、鑑賞者によって「良さ」の判断が異なっている。
  2. 同じ作品を「良い」と判断する鑑賞者たちの間でも、その「良さ」の強さは異なりうる。上の詩の例で挙げたように、同一の詩を、その思想のみから「良い」と判断する場合と、思想と韻律の調和において「良い」と判断する場合とがあり得る。この両者の間で下される「良い」の判断は異なりうる。これは、「良さ」を言語化する際に現れると考えられる。つまり、前者は「清々しい光景が描かれている」とのみ評価するのに対し、後者は「清々しい光景が Senkung から始まる詩行により穏やかな韻律によって描かれて、それらがうまく調和している」と評価を下すかもしれない。ここで語られる「良さ」は相違していると言いうる。
  3. 同じ鑑賞者が二つの作品に対して、それぞれ違う「良さ」を抱くことがあり得る。すなわち、一人の鑑賞者が「Chopin の Nocturne は op.9-2 よりも op.15-2 のほうが良い」と判断するような場合である。この時、後者のほうが前者よりも「良」く、そのような「良さ」は同一とみなすべきではない。
 以上のように、これでその特徴が尽くされたわけではないだろうが、「良さ」はスケッチされるだろう。 1. の場合は、全く個人の趣味と言ってしまえるだろう。 2. については、これは難しい。全く同じ「良さ」とはいえないが、それでも異なった「良さ」であると言い切ってしまって良いのだろうか、という疑問も残る。これも 1. と同様に個人の趣味の問題へと解消される点を残しているが、けっしてそれだけではない。作品評価と知識の問題や、あるいは 3. と関係して「良さ」の強度の問題とも結びつくだろう。 3. に関しては、さきに述べたように、「良さ」の強さに関する問いが含まれている。作品の評価において順序関係の構造が入ると言っても良い。ただし完全な形で入るのではなく、未決定にとどまるものもある。上の詩の例で、「思想は素晴らしいが、韻律を評価できないので作品全体についても評価を保留する」といった場合が考えられるし、「両作品について、評価を下しはしたものの、どちらがより「良い」ものであったかという判断は下すことができない」といった場合もあり得る。だが一定の評価順序を付けることができるということは、その鑑賞者にとって何らかの評価体系のようなもの(誤解を恐れずに言えば「理論的」な体系)が、非明示的であれ含まれていることを示唆するのではないだろうか。

2014年2月12日水曜日

葡萄酒のこと

 古代ギリシアの物語にほんのすこしだけ触れたのであるが、そこにある葡萄酒は、現在私たちが知っている「ワイン」とは違うものである、というように思われたので、いくつか引用しつつその違いを見ておこうと思う。

 現在私たちが飲むワイン、特に赤ワインはだいたいアルコール度数が 10 度から 15 度ほどで、タンニンなどの渋みもある。ふつうは何かで割ったりすることはなく、そのまま飲まれる。
 こういうワインのイメージをもっていると、ギリシアで飲まれていた葡萄酒がそれといかに異なるか、ということに驚かされる。
それから食事も一緒にとり、葡萄酒に乳をまぜて飲んだりもした。(ロンゴス作、松平千秋訳『ダフニスとクロエー』、 p. 81 )
ロンゴス作の『ダフニスとクロエー』では、しばしば葡萄酒に乳が混ぜられる。しかも、ダフニスとクロエーという少年少女がそれを飲むのである。現代の感覚で言うと、青少年が飲酒をしているようで、こういうところでも葡萄酒に対する感覚も違っている。
水夫たちは、脚速き黒船の索具を結び終えると、なみなみと縁まで酒を満たした混酒器を据え、永遠にいます神々、わけても眼光輝くゼウスの姫君に神酒を献じた(ホメロス作、松平千秋訳『オデュッセウス』、上巻 p. 55)
ここに現れるのは混酒器と呼ばれる道具で、どうやら壺のような形をしていたらしい(参照: http://www.vdgatta.com/note_pottery_crater.html )。『ダフニスとクロエー』でみたように、ギリシアにおいては葡萄酒は何かで割って飲むものであったようである。
… この甘美な赤葡萄酒を飲む折には、彼は一個の盃に酒を満たし、それを二十倍の水で割る。すると混酒器からは、えもいわれぬ甘美な香りが漂い出し、とても飲まずに我慢できるものではない。 (ibid. p. 227) 
この酒は「イスマロスの守護神アポロンの祭祀を務める、エウアンテスの倅マロンからもらった美酒」 (ibid.) で、かなり特殊な酒なようである。上引用文の「二十倍」という部分には註がついており、そこではギリシアの葡萄酒がだいたいどのようなものであったかが語られる。
こう〔二十倍と〕訳してよいかは、些か疑問ではある。原文では盃一杯と水二十メトロンとある。メトロンがどれほどの量か判らないから、二十倍とするのは正確ではないが、いずれにしても異常なほど強い酒であるに違いない。普通の葡萄酒を水で割る時は、酒が二、水が三というのが通例であった。(ibid. p. 362)
  ギリシアの葡萄酒は、普通はそこまでは強くないようである。wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/ワイン) によれば、糖分が多く残り、そのぶんアルコール度数が低かったようだ。そのため、葡萄酒というよりはぶどうジュースに近い感覚で飲まれていたという。そういわれると少年少女が牛乳で割った葡萄酒を飲んでいたというのも納得できる。