2013年12月17日火曜日

探求すること、問うこと

 さいきん、いわゆる哲学の古典に触れることがますます増えてきたと思う。哲学科の学部生としてすこしは「それらしさ」というものを持ち始めたといえるだろうか。

 最近はなんでもとりあえず本を読むことにしているのだが、しかし、これといった問題意識が無いことに気付かされる。私のように知識もままならず、かといって目の前に立ちはだかる古典という壁に傷をつけられるほど鋭利な思考の力を持っているわけでもない。読んでいて、「あぁ、なるほど」とか「こう考えているのだな」とか読み取ることはできても、「さてこれは正しいのか」とか、さらに進んで「この思考はどこまで正しいのか」とかを考えていないのかもしれない。
人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから。(プラトン『メノン』、岩波書店、 1994 年、藤沢令夫訳、 pp. 45-46 )
私は〈何かへ〉の問いを欠いている。問いを知らずにいる。その結果探求できずにいる。学部生ふぜいが偉そうに探求だなんだと語っているだけかもしれない。だが最近はぼんやりと「本に本を読まされている」だけのような気がしてぼんやりと不安になる。それもいいのかもしれない。そうして過去の哲学者の議論を刻み込んでいく時期なのかもしれない。来年には卒業論文もある。すこし気が急いているだけなのかもしれない。