2013年10月31日木曜日

孤独と他者

 全き孤独はいかにしてあるのか。

 孤独とはどういうあり方をしているのか。それは、あらゆる他者との関係が断絶されたり、覆いを被せられることによってその関係が見えなくなっている状態、関係のネットワークが全て断ち切れている状態のようなものと考えられる。あるいは、その関係の対象をもう少し広げることも出来るかもしれない。しかしここでは、さしあたり関係の対象を人間に限定することにしよう。
 上では関係の「ネットワーク」といったが、人間関係は第一義的には「私と誰か」との関係であり、それは必然的にネットワークではなく、私を中心において、放射線状にのびることになる。孤独とは、端的にこの線が伸びていないこと、ないしは本来伸びてはいるが、それが一時的に見えなくなっている状態と考えられるであろう。

 インターネット上でも、孤独を嘆く言葉は散見される。パソコンに向かう私達は、発信相手がいても常に一人であるようだ。私も、 Twitter においても、このブログにおいてさえも、ほとんど不特定多数に対して語りかけている。特定されない他者へは、関係の線はのびづらいように思える。

 孤独であるというのは、それ自体としてあるのか、それとも欠如的な様態なのか。これは次のような思考実験をしてみると、すこし分かる気もする。すなわち、「世界にたった一人の存在者は孤独か」という問いである。関わりうる他者が一切存在しない、というのはなかなか考えづらい。そもそも「私がいる」ということが、誰かある存在者を前提としているからである。この問いには答えようが無い。私は哲学上で想定される神が好きなので、神が存在すれば、すくなくとも彼は孤独ではないだろう、とだけ答える。
 しかし、そもそも孤独を感じるのは、他者がい「ない」という欠如的な様態でしか無いのではないか。他者との関わりを前提として生きている私たちだからこそ孤独を感じるのではないか。個人化が進むとか、社会の分裂だとか、家制度の崩壊で家族がそれぞれ自分の部屋にこもる時間が多いだとか、表層的・表面的にも見えることが囁かれる時代だが、他者との関わりがそもそも前提となっている私たちの精神には、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」という語りが通奏低音のように響いているように思えた。

2013年10月29日火曜日

剥落

 点描画という画法をご存知だろうか。
 細かい点を画用紙の上にたくさんつくり、それをもって絵を完成させるというものだ。私が初めて点描画という画法を出会ったのは小学生のころだった。一年生だか二年生だか、そのときの教師は非常に厳しく、私たちが提出する絵は点描画以外は一切認めなかった。その教師がなぜ点描画しか認めなかったのは、今となっては定かではないが、筆を自由に動かして思いのままに描こうものなら拳骨さえ飛んできそうな勢いであった。その当時の私は、言ってしまえば非常に大雑把で落ち着きのない類の人間であったし、絵を描くにしても、技巧を凝らすなどといった言葉など欠片も知らず、ただ線を引いて色をつければよいのだろう、それが絵というものだろう。そう考えていたのだ。そのため点描画など面倒な画法などやる気にもなれなかった。絵を描く授業などなくなればいいとさえ思ったこともある。
 ところが十年という月日は非常に長いものなのだ。少なくとも、人間の性向が反転するには十分すぎるほどに長い。なにを間違えたのか、私は高校で美術部に入部した。そして間違えていたのは私だけではなかったらしい。私の描いた絵がそこそこのコンクールで最も芸術的に秀でている絵だとされてしまった。そうなるとまた親も間違い出す。私をして芸術大学に入らしめんとしたのだ。それも、我が国において最も芸術分野で名声のあるあの大学である。あの大雑把の落ち着き知らずの男が、芸術である。芋の色さえ満足に調合出来ないあの男が、絵画である。小学生の頃、何事ももっと丁寧に出来んのかと怒鳴りつけた父も、芸術性の欠片もないと同級生の親に語っていた母も、今は何が起こったのか。我が家の自慢の息子だ、と。小さい頃から独特の才能を持った絵を、と。何から何まで間違ったことを言う。愉快なほどまでに、誰もが間違う。
 大学の入試でも絵を描いた。私はその場で描いた絵を自ら評価して、美術に関心のある小学生のほうが幾分上手く描けるだろうと思った。ところが試験官も間違った人たちだったのだ。そうでなければ能なしだ。その絵を見て、素晴らしいだの、何十年に一人の逸材だの。好き勝手言い始めたのだ。お陰で私は大学に合格した。それも最高の成績だったらしい。私を見て、大学の人は天才だのなんだの。高名な芸術家の生まれ変わりとさえ言うものもいた。それでも私の描く絵は、私にとって上手いともなんとも思わない。私は街中の落書きのほうがよっぽど上手だと思っていた。

 世の中間違いだらけだ。三十にもなった男の絵をありがたがって高い値で買ってゆく。おかげで私は不自由なく暮らすことができた。不器用な人間だったから、それ以外の仕事など出来ないだろうと思っていたので、絵を書くだけで食べていけるのはまさに僥倖である。たまにふざけて、小学生のころに描いた芋を思い出しながら描こうとおもった。そこでも私は芋の色の調合に失敗した。キャンバスには何だかわからない色をした何だかわからないものが、何だかわからない形をとって現れた。小学生の時よりかは幾分上手いだろうか。懐かしい気持ちになることはできたが、それでもひどい絵を描いたものだと思った。試しに、知り合いの画廊へ、匿名で出してもらうことにした。それなのに、画廊に出した日にはその絵は私のものだと特定され、また高額で物好きの手に渡った。何から何まで間違いだらけの世の中である。

 それでは私もさいごにもう一つ間違えてみることにしよう。いや、私の人生も全て間違いだったのかもしれない。それでも大きな間違いを犯してみようとおもった。今までの絵は全て、言ってしまえば適当に、その場の気分で、ものの数時間で描いたものばかりである。では、今度はじっくりと時間を書けて描いてみよう。そこで、点描画である。小学生の私に、絵画を嫌いになる種を植えつけた点描画である。もっともその種も芽吹かなかったか、あるいは間違った種を植え付けられたのかは定かではない。
 小学生のころの教師の叱言をいまになって思い出す。それに従って描いて行こう。何百時間とさえ使おう。何万点もキャンバスに叩きつけよう。教師の拳骨が飛んできそうな雰囲気の図画工作室が思い出される。小学生に戻った気分である。小学生に戻った私は、嫌々ながら拳骨をおそれ、キャンバスに向かってただ無心に色を帯びた点を打ち続けた。
 途方も無い時間が過ぎたのちに更に途方も無い時間が過ぎ、無限とも思われる数の点を無限とも思われる回数だけ打った。果てしない広さのキャンバスは、各色に名前を付けていては言葉が足りなくなるほどの色で覆い尽くされた。あと一点。私があと一点をキャンバスにつけたら完成である。そう思ってさいごに一つ色を筆にとり、この大きな間違いに打ち付けた。

 私は大きな間違いを犯したのだ。その達成を味わおうとした刹那である。私の間違いを彩る一つ一つの色は、小さな球体をなし、色の洪水のようにキャンバスから溢れていくではないか。虹に触れられたなら、きっとこういうものだろう。そう思った頃にはキャンバスはすでにもとの真っ白な状態であり、アトリエは色の球に埋め尽くされていたのだった。

2013年10月27日日曜日

叙景

 小さな鳥は無機質で透明な死へと飛び込んだ。

 曇天は重い。今にも雨が溢れだしそうな午前の大学構内で、小鳥の最期の声を聞いたのは私だけだった。いつのも明朗な歌声からは信じられない、ただ窓ガラスにぶつかったときに自然に漏れたような声だった。「命は何よりも重い」。その命を持った生き物が、そこそこの速度をもって窓ガラスにぶつかっても、窓ガラスはびくともしない。私が小石を拾って投げ付ければ、小鳥の死は軽々と砕け落ちるだろう。間違っているのは命を語るその命題か、それとも物理法則か。
 小鳥の死骸は、そのうつくしい白い腹を天へ向けている。もう羽ばたかない、もう歌わない、もう動かない。広がった翼も、最期の声を絞り出した嘴も、小枝みたいな脚も。ゆっくりと揺れる陽だまりに合わせて、抜け落ちた羽は踊るように飛んでいった。
 死臭も何もない。香るのはただ金木犀の甘い秋だけ。悲しみも何もない。意識に立ち上るのは脳を覆うゆるやかな眠気だけ。私の視界のうちにはもはや小鳥の姿はなく、足も止まることをやめた。自然と体は前へと進んでゆく。歩き始めると、踵に死んだ小鳥の視線を感じた。死んだものはその開いた瞳で何を見つめているのだろうか。

 日は暮れ落ちた。細かくて柔い雨が足元を濡らす。文学部棟の研究室から漏れる光が、小鳥の死の跡地を淡く照らしていた。そこにはもはや何ものもいない。濡れた地面がぬるぬると光をうけている。くすんだ落ち葉は小鳥への献花なのか。優しい雨音だけがする。落ちた銀杏の匂いが不快だった。

2013年10月22日火曜日

音楽理論と鳥の声

彼[スティーヴン・フェルド]は、パプアニューギニアのカルリの人々が、旋律を滝で、旋律の終わる音(終止音)を滝壺で表していることに気がついてから、「見えない理論」がここでもきわめて精緻な形で存在していて、人々が滝や木の幹や枝、あるいは、鳥の声などを使って音楽理論について語り合っていることを知るようになったのである。(徳丸吉彦、蒲生郷昭「見えない理論−−音楽の理論・楽器・身体」、括弧[]は筆者による補足。)
  ここで語られている「見えない理論」とは、例えば和声学や対位法のような理論を含む、文字によって記されているような「見える音楽理論」に対し、無文字文化などでの音楽教育において、下手な演奏をしたり、(その文化において)「変な音」を使った演奏をしたりすると、教師からその都度、「時には言語によって、また、時には、睨んだり、怒ったり、ぶったり、という非言語的な手段」によって、「正しい音楽」へと是正されることによって表現されるような音楽理論である。そうした理論はまったく述べられることがなかったり、あるいは独自の用語で構成されていたりするのではない。まさに「鳥の声」のような、ごく一般的な言葉によって語られたりする。
 言葉というのは面白いもので、私たちの文化にあっても、鳥は歌う。まさに音楽ということがらを通じて、私たちは知らない文化の人々と考えを同じくする。ここになんとなく面白さを感じた。
目を醒ませ、フリードリーケよ
夜を追い払い、
おまえの瞳の輝きは、
朝へと変えてゆく
鳥たちの甘やかなささやきは
愛しき人よ、おまえを呼んでいる ...

 鳥と音楽の繋がりというのは、想像以上に深いものなのかもしれない。鳥は実際に「歌い」、そして私たちによって歌われる。音楽を離れて、詩の世界に至っても、鳥の一声は詩的世界に一つの音楽的情景を与える。しかし、私たちが鳥の声を「音楽」というとき、そこには私たちがほとんど意識しないまでに入り込んだ比喩があるのだろう。私たちはそのままの意味で、鳥の声を「音楽」だとは思っていないだろうし、思うことができないはずだ。とはいえ、これもはじめに引用した論文によれば、あるいは、私たちが鳥の「歌」に秘められた「見えない理論」に精通していないことによるのかもしれない。

 論文は、徳丸吉彦『音楽とはなにか −− 理論と現場の間から』(2008, 岩波書店)より。詩は Johann Wolfgang von Goethe, "Erwache, Friedrike" より引用。筆者による拙い訳で申し訳ありません。

2013年10月18日金曜日

ライプニッツの神と私の雑感

五三 [...] 神のもっている観念のなかには、無数の可能な宇宙があるが、現実にはただ一つの宇宙しか存在することができないから、あれではなく、これを選ぼうと神が決心するためには、それなりの十分な(究極的)理由がかならずある。 
五四 そしてその理由は、(神における目的と行為との)適合、すなわち、これらの世界がふくんでいる完全性のうち、どれがいちばんすぐれているかということのなかにしかない。すべて可能的なものは、それぞれ内につつんでいる完全性の度合に応じて、存在を要求する権利がある(ということが、神の選択の前提になっている)わけである。
五五 これこそもっとも善い世界が、現に存在している理由である。神はそれを知恵によって知り、善意によって選び、力によって生み出す。 
(ライプニッツ『モナドロジー』) 

 ライプニッツの神は世界をただ一度だけ創造する。森羅万象は「天地創造のはじめ以来」、分解されず、一切消滅することなくある。それは神の「創造によって生じ」たものである。ライプニッツの神は、あらゆる「ものの最後の理由」としてその存在がまず語られることになる。あらゆる偶然的心理は、それぞれ神へと至る道(というよりも神からきた道)をもっている。宇宙論的に証明された神は「一つしかない」。
 神の悟性(あるいは知性)のうちに秘められた無数の宇宙は、もっとも完全性において優れているもののみが実現される。その宇宙は神に対し、さまざまな要求を投げかける権利を持ち、じじつ投げかけているのだろうか、そこにおいて神は最善たる世界を選択する。
 世界、あるいは宇宙という言葉をひろく取ると、この神は文筆家、いやむしろ作曲家的であるように思える。まず森羅万象として五線譜を創造する。その五線譜のあり方は、可能的にあらゆる音楽をそのうちに含みつつも、いまだ統御されていないあり方として無秩序である。そのうちあらゆる秩序・無秩序が神に対して要求の声を投げかけ、神が最善だと思った音楽のみを引き上げる。まさに「知恵によって知り、善意によって選び、力によって生み出す」。各々の一音一音は、作曲者、あるいは演奏者に働きかけることで全体をなし、彼らを通じることによってのみお互いの関係が得られるようになる。一切の空間的な広がりを持たない音=モナドは、その時、その音楽作品全体=宇宙との連関にあって、「宇宙を映し出している」のだ。

 ひどく雑駁な上、正当なライプニッツ理解から幾分(下手をすれば大きく)逸れるものになるだろうが、『モナドロジー』という一つの体系(とはいえ、一つの「機会の書」(下村寅太郎))に触れた「雑」感として、お許し願いたい。


 ライプニッツ、清水富雄 竹田篤司 飯塚勝久 訳『モナドロジー 形而上学叙説』(2005, 中央公論新社)より、清水、竹田による訳の「モナドロジー」を参照した。

2013年10月14日月曜日

感情および情念に関して、思うところ

 さいきんは音楽哲学的な話題が多かったので、一度もともとの関心に振り返ってみようと思う。その対象は「感情」と呼ばれているものである。そもそも、私は感情の外延を記述するのに、一般に感情によって作られ得ると考えることのできそうな芸術に目を向け、そこからさらに振り返って感情を考えることができないものか、と思い芸術、とくに音楽について考えてみようと思ったのではあるが。

 いわゆる「感情」や「情念」というものに関してであるが、はたしてそれらは一体どこからどこまでがそう呼ばれるものなのだろうか。「悲しい」は情念であると言われても、およそ誰も疑うことはないであろうが、「つらい」や「痛い」は情念に含まれるのか、およそ生起する形容詞的なものは情念に含まれうるのだろうか、等々の疑問は生まれて止むことはない。感情の外延や内包を正しく定めることも一つの大きな問題となるのである。以下では情念の諸性質を見てみることにする。
 情念はかならず言語化されている。私たちが情念を捉える時、かならずそれは言葉によって記述される形であらわれる。逆に、言語化されていないものは情念とはいえない(私は言語化以前のものを感情として区別している)。言語化されている以上、情念は有限の種類しかなさそうに思われる。通常使われ得る情念語彙は、私たちの日常生活における語彙の集合より大きい集合となることは考えづらく、日常生活における語彙も有限であることからもそれが言える。これに関して、デカルトは『情念論』において、情念を全て数え上げていると言明していることなどからも、(権威主義的ではあるが)証明されていると考えられよう。

 さて、情念についてすこし詳しく見ていくことにしよう。上では、情念は言語化されていると述べられたが、情念は「感情が言語によって表現されたもの」として一応の定義付けができるだろう。私達はふだん、「なんとも言いがたい情念」と呼ばれるものを抱くことがある。これは確かに「なんとも言いがたい」という形をもって表現されたものであるから情念であるが、たほうそれは情念以前のものでもある。それは完全に輪郭付けられていない情念であって、うまく情念語彙と対応付けられていない。情念でありながら、完全な情念ではなく、欠落した情念である。こうした欠落が起こりうるのは、情念が情念それ自身として心的実在であるからではなく、なんらかの基礎をもつ、表現であるからであろう。その基礎が感情であって、それは言語的規定を一切欠いている。すなわち、あえて循環的な定義をするならば、「感情とは、言語による表現が与えられることによって情念化する以前の、生の素材である」。
 何らかの外的原因によって感情は、私たちの言語の光が届かない海底のうちで生まれ、やがてその発生の衝撃が波を作り、海面において情念として把握されるに至る。比喩を用いればこのようになるであろうが、およそそうした次第である。この比喩における波が、感情から情念への写像のようなものであり、同時に私たちの認識能力であるといえる。
 感情から情念に至るには、感情が「何であるか」を知る必要がある。感情は言語的規定を欠いているので、それが「何であるか」を明示的に知りうることは不可能である。たほう感情は私たちの心のうちで、なんらかの仕方で私たちの思考や行動に影響を及ぼす。主題的な形で私たちに影響を及ぼすのではなく、私たちにおいても知らず知らずのうちに、根本において感情を暗黙のうちで了解している。その暗黙の了解の様式が、私たちに情念として知られるのである。輪郭付けられていない情念は、その様式が混乱した形で、あるいは複数の様式が入り乱れている場合に現れうるのではないだろうか。

 感情から情念に至る際に混乱があるのは、なにも認識能力の波が途中の障害物に邪魔されて乱されることばかりに原因があるのではないかもしれない。感情から情念への対応が必ずしも一対一では無い、ということがその原因ではないと私は考える。感情を連続的な点の集合として考え、情念を場のようなものだと考える。つまり、近接した感情は同一の、あるは近接した情念として与えられる。色のグラデーションが与えられた実数の平面のように考えれば良いかもしれない。その際に、情念と情念の間、例えば赤と黄色の間にあるオレンジの部分、そこに私たちの感情が落ち込んだ時、混乱が生じて輪郭を失った情念が現れるのではないだろうか。

2013年10月8日火曜日

規範と実演としての音楽

 音楽作品はいったいどこにあるのか、という問いについて、少し前に話し合う機会があったので、それから考えたことを、自明な事柄が多いようにも思えるが、少しまとめておこうと思う。

 音楽作品は以下の二つの様態を考えることができる。すなわち、一方は規範として、他方は実演としてである。どちらか一方のみを音楽作品と断言してしまうことには困難が付き纏うであろう。

 これらの関係を簡単に述べるとすれば、後者は前者に依存、あるいは前者に従う形で与えられている。おそらく、規範は実演よりも抽象度の高い音楽作品と言えるだろう。とはいえ、規範においては例えば音楽作品中の個々の音の長さなどは具体的に指示されておらず、程度の差こそあれ、演奏者によって実際に演奏されたそれぞれの音楽は規範的であると言えるかもしれない。そういう意味で実演が規範に従うという強い形ではなく、規範と実演が寄り添っている、互いに浸透しあっているとも考えられる。
 とはいえ、個々の実演が規範に寄り添うその仕方には、抽象性のジャンプが潜んでいる。実演は全て、各演奏者によって為された解釈に基づいて行われる。厳密に言えばその時点で規範からの逸脱が見られるはずである。しかし、それらは解釈を含んだ上でも規範に従った演奏である。その意味で、ある音楽作品の個別的な演奏は全て、その作品の規範へ立ち戻ったうえで理解されている。規範から個々の実演への指示のみならず、ここの実演がその規範を同時に指示している。つまり、「任意の実演的音楽作品に対して、それが規範的音楽作品へと立ち戻ることが出来るならば、それらは同一の音楽作品である」 と主張できるのではないだろうか。