2013年11月5日火曜日

解釈の余白について

 先日、まどか☆マギカの映画を観た際にも思ったことであるが、私たちはある表現された対象に対して、そこに複数の意味を見出すことができる。映画においてそのような視点が可能であるのに対し、ではほかの芸術についてはどうか、と考えた。こうしたことについて考えたことをひと通りまとめて記そうと思う。

 同じ記号について、それがコンテクストを理想的に備えていない限り、その記号は、それを認識する複数の主体にとってそれぞれ意味が異なりうる。それと似たことで、記号の複合的なあり方、例えば音楽や会話において、我々は多様な受け取り方が可能となる。その解釈における多義性を、「余白」と呼ぶこととする。
 例えば、日本人は発話において、伝えたい内容を全て言い切ることはしない、とよく言われる。それに対し、欧米人は明確に相手に伝えようとする。これも解釈の余白の問題であると考えられる。日本人の発話は欧米人のそれに比べて解釈の余白が広いと言える。あるいは、三味線の古い楽譜においては、音の長さは記されていなかったという。それに対し、五線譜は音の高さや長さなどを規定しているぶん、日本のものよりも解釈の余白が狭いといえるかもしれない。

 音楽においては、音の配置や音の強さ、あるいは柔らかいとか鋭いとかいったような音の性質をもって、私たちは悲しみが表現されているとか、楽しい感じの曲であるとか言ったりすることが出来る。これもまた解釈の余白の問題といえるかもしれない。音楽において、「何を表現しているか」ということを一意に伝えることはまず不可能である。そうしたことが可能であるならば、音楽はすでに暗号と化していると言える。「何を表現しているか」を一意に伝えることは出来なくても、その表現しようとしていることを中心とした(あるいはもう少し弱い条件で、表現しようとしていることを内に含んだ)ある領域を表すことは出来る。単調で激しければ我々は怒りを想像するだろうし、長調で穏やかであれば何か楽園のようなものを見出すだろう。そうした音楽において制限されたあり方は、言ってみればキャンバスの一部だけが白く、まだ完成していない絵画のようなものであろう。私たちは、絵画のうち描かれていない部分を、多様に、しかし絵全体によってある程度の制限をうけた想像によって補うことができる。ただし、上の例で理解するにおいて注意すべきことは、私たちが聴取することによって音楽作品ははじめて完成するというわけではない(もちろんそうした見方も可能であろう)。また、そういうからと言って、音楽芸術は、音楽作品の完成したかたちがそのように余白があるという意味で絵画芸術に劣るというわけでもない。絵画においても、同様の余白はあるものの、それが(視覚という認識能力の性質によるのだろうか)比較的小さいということである。
 映画鑑賞は、絵画芸術と同様に視覚的な芸術であろうが、解釈の余白は非常に大きいと思われる。映画においては、物語の進行を記す部分(主にスクリーン上で人間が映る部分)の他に背景となる部分が大きい。背景は、言ってしまえば何でもいいのだが、物語が進むにおいてふさわしい背景が選ばれているはずである。そうすると、私たちは物語の進行以外に、背景に視線を写して、そうした物語の進行を示唆するような何かを探すことも出来る。そのとき、物語の進行の外に意味が幾重にも重ねられる。そのように、映画においては背景となる映像がそのまま余白になり得る。
 しかし、このままでは、意図して描かれているものと意図されずして示唆するものとは一切区別がつかない。意図して描かれたところが解釈の余白となるとは考えづらい。もちろん、「意図というものは、作品が作者の手から放たれた瞬間に一切考えられなくなる」と考えて、あらゆる背景を余白とすることもできる。しかしこのとき、音楽において、「およそこのように聴取されるであろう」(あるいは「ここは怒りとして聴取されるべきである」といった強い意図もありうるだろう)という意図のもとで表現された部分も、「おおよそそのように聴取されるべきである」という「常識」から逸脱して解釈が可能になるだろう。
 この問題は、芸術における作者の意図に纏わる問題と近づけて考えることが出来るだろう。

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