2013年11月8日金曜日

網目の音楽作品

 以前、規範と実演としての音楽として、音楽作品を規範と実演という二様態に分けて考えた。このとき、規範の側は主に楽譜のようなものを想定していたのだが、大学で渡辺裕先生の芸術学の講義を受けて、楽譜は規範足りうるかどうかについて疑問を持った。さらには、こうした二分法的な考えにおいて、捉え損なわれる音楽作品があるのではないか、ということについて考えた。まずは、先生の講義内容を簡単にまとめ、そののちで考えたことを記そうと思う。

 その講義においては、おもに編曲という観点が中心となっていた。つまり、編曲においては何かあるオリジナル作品が存在して、そこからの一種のコピーないしは別の作品としての創作として捉えられがちであるが、そうした原曲と編曲の境界線のようなものが明確に引く事が出来るのかどうか、ということが問題とされた。
 そもそも楽譜は、明確に演奏法を定めたものであるかどうかすら疑わしいという。その際に Chopin, Nocturne, op. 15-2 を例として用いる。
 一つ目の図にあらわれる、 2 小節目の右手の 16 分音符のフレーズは、似たような形で、しかし少しリズムを変えながら再び 49 小節目、すなわち二つ目の図のように現れる。この二つのフレーズは、二回目だからリズムを変えた、というのも考えうるが、実際の演奏はその都度適宜リズムが変えられ、たまたま記譜されたリズムがこの形だったとも考えられる、ということである。すなわち楽譜は、それが明確な規範としてあるのではなく、あくまでも演奏に際してどのように音が並べられていたかを示すもの(もっと強く言えば演奏の一例)でしか無いとさえ言える。
 このように語られたとき、楽譜が「規範と実演」という音楽作品相互指示によるネットワークの中心に位置づけられるのではなく、もはや楽譜はその中心から退き、中心のないただの網の目となる。ただ楽譜と各演奏が等価として、その支持関係で結ばれていることになる。
 さらに重要なのは、ここにさまざまな編曲などが含みこまれ得るということである。その編曲はどこまで含まれるかは、別の議論が必要となるだろうが、例えば楽譜の音の並びはそのままで、楽譜がしめすリズムとずれていても、それは同一の曲として指示されているであろうが、やはり規範とのズレがあるため編曲の一種といえる。そのとき、こうして演奏された音楽はやはり音楽作品の網目に組み込まれている。ヴィルトゥオーソ的な文脈で、即興的にアレンジされた演奏も似たような形をとるであろう。さらには、ここにはそうしたアレンジを記した楽譜も、もともとの曲を指示するものとして組み込まれ得る。「楽譜が絶対的なオリジナリティを保っている」という命題は疑い得るようになる。

 「一つの音楽作品」の外延は、以上のように非常に広いものとなる。それと同様に、「同じ曲」という概念がどこまで及ぶのかも曖昧である。以上のように、ネットワークのように音楽作品を考えるなら、楽譜の中心的規範性を保ったまま議論することも出来るように思われる。例えば、楽譜どうしのネットワークを考えればそれでよく、各楽譜を実演が指示している形としても考えられる。一つの楽譜の中心性は失われつつ、それでも楽譜の規範性は維持されている。可能ならば、仮想的に楽譜を想定することができるだろう。

 一つの音楽作品は、それぞれが宇宙のように広がっている。一つの音楽作品の限界を提示することそのものは不可能なのだろうか。

2013年11月5日火曜日

解釈の余白について

 先日、まどか☆マギカの映画を観た際にも思ったことであるが、私たちはある表現された対象に対して、そこに複数の意味を見出すことができる。映画においてそのような視点が可能であるのに対し、ではほかの芸術についてはどうか、と考えた。こうしたことについて考えたことをひと通りまとめて記そうと思う。

 同じ記号について、それがコンテクストを理想的に備えていない限り、その記号は、それを認識する複数の主体にとってそれぞれ意味が異なりうる。それと似たことで、記号の複合的なあり方、例えば音楽や会話において、我々は多様な受け取り方が可能となる。その解釈における多義性を、「余白」と呼ぶこととする。
 例えば、日本人は発話において、伝えたい内容を全て言い切ることはしない、とよく言われる。それに対し、欧米人は明確に相手に伝えようとする。これも解釈の余白の問題であると考えられる。日本人の発話は欧米人のそれに比べて解釈の余白が広いと言える。あるいは、三味線の古い楽譜においては、音の長さは記されていなかったという。それに対し、五線譜は音の高さや長さなどを規定しているぶん、日本のものよりも解釈の余白が狭いといえるかもしれない。

 音楽においては、音の配置や音の強さ、あるいは柔らかいとか鋭いとかいったような音の性質をもって、私たちは悲しみが表現されているとか、楽しい感じの曲であるとか言ったりすることが出来る。これもまた解釈の余白の問題といえるかもしれない。音楽において、「何を表現しているか」ということを一意に伝えることはまず不可能である。そうしたことが可能であるならば、音楽はすでに暗号と化していると言える。「何を表現しているか」を一意に伝えることは出来なくても、その表現しようとしていることを中心とした(あるいはもう少し弱い条件で、表現しようとしていることを内に含んだ)ある領域を表すことは出来る。単調で激しければ我々は怒りを想像するだろうし、長調で穏やかであれば何か楽園のようなものを見出すだろう。そうした音楽において制限されたあり方は、言ってみればキャンバスの一部だけが白く、まだ完成していない絵画のようなものであろう。私たちは、絵画のうち描かれていない部分を、多様に、しかし絵全体によってある程度の制限をうけた想像によって補うことができる。ただし、上の例で理解するにおいて注意すべきことは、私たちが聴取することによって音楽作品ははじめて完成するというわけではない(もちろんそうした見方も可能であろう)。また、そういうからと言って、音楽芸術は、音楽作品の完成したかたちがそのように余白があるという意味で絵画芸術に劣るというわけでもない。絵画においても、同様の余白はあるものの、それが(視覚という認識能力の性質によるのだろうか)比較的小さいということである。
 映画鑑賞は、絵画芸術と同様に視覚的な芸術であろうが、解釈の余白は非常に大きいと思われる。映画においては、物語の進行を記す部分(主にスクリーン上で人間が映る部分)の他に背景となる部分が大きい。背景は、言ってしまえば何でもいいのだが、物語が進むにおいてふさわしい背景が選ばれているはずである。そうすると、私たちは物語の進行以外に、背景に視線を写して、そうした物語の進行を示唆するような何かを探すことも出来る。そのとき、物語の進行の外に意味が幾重にも重ねられる。そのように、映画においては背景となる映像がそのまま余白になり得る。
 しかし、このままでは、意図して描かれているものと意図されずして示唆するものとは一切区別がつかない。意図して描かれたところが解釈の余白となるとは考えづらい。もちろん、「意図というものは、作品が作者の手から放たれた瞬間に一切考えられなくなる」と考えて、あらゆる背景を余白とすることもできる。しかしこのとき、音楽において、「およそこのように聴取されるであろう」(あるいは「ここは怒りとして聴取されるべきである」といった強い意図もありうるだろう)という意図のもとで表現された部分も、「おおよそそのように聴取されるべきである」という「常識」から逸脱して解釈が可能になるだろう。
 この問題は、芸術における作者の意図に纏わる問題と近づけて考えることが出来るだろう。

2013年11月3日日曜日

救済なき物語

 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語を観た。テレビ版の放映からずっと好きな作品が完結してしまったので、私の中の物語がまた一つそこで止まってしまった。観た感想めいたものと、それをみて考えたことを、粗雑なことではあるがかんたんに記しておこうと思う。映画や小説などの作品に対して、外的なものを持ち込んでその作品をよく理解し、批評しようという立場はあまり私の好みではないので(もちろんそうした立場を否定するわけではない)、内容にはあまり深く踏み込まずに、映画を観た私の側で現れたことについて書こうと思う。いわゆるネタバレはあまり多くはないと思うが、感想にはもちろん内容もある程度含まれることになると思うので、注意していただきたい。

 まずは軽く映画を振り返ってみようと思う。
 私は映画をあまり観ないのだが、こうしてたまに観るたびに驚く。映像の細やかな動き、それに合わせた効果音、更には背景で流れる音楽。これらが一つになる素晴らしさを感じる。そして物語の世界がそこで一つ完結する。観るたびに思うことではあるが、やはりなかなか映画を観るようにはならない。
 作品についてであるが、最初の数分は少し戸惑った。というのも、アニメ版第一話の映像から始まるのだが、まどかをはじめ、他の魔法少女の指にはめられた指輪が強調される。そうした点において、映画の前編二作において構築された世界との繋がりが見えにくいからだ。
 音楽については三拍子のものが多く(印象に残ったものが三拍子だったためであるが、三拍子ではない曲があったのかどうかは把握していない)、映像もそれに合わせてであろうか、ミュージカルや劇のような始まりをしたのが非常に印象的だった。魔法少女への変身においても、音楽とやや眺めの踊りのカットによってそれがなされるのが今までと違ってみえた。変身の最後の一瞬に、それぞれの少女が魔女となる時のモチーフのようなものが現れたのも強く記憶に残っている。
 そうした演劇調の表現が、中盤になってほむらの創りだした世界であることが明らかにされ、物語は終盤へと向かう。映画の最後には、まどかが再構築した世界がさらにほむらによって書き換えられ、アニメ版第一話の学校のシーンが、微妙に違う形で、繰り返される。第一話に描かれた場面で、映画の幕も閉じられることになる。

 映画は素晴らしかった。映像やらのどこがすごいなどのような褒め方は出来ないので、いくつか気になったことを挙げることにおいて感想を述べたこととしよう。
 物語が幾重にも重なっていた。例えば、この作品も、前編一作目のようにアニメ版第一話の情景から始まり、アニメ版第一話の情景で終わる。ほむらの魔法のように、幾度と無く同じ時間を私たちが体験していることになる。その描き方が面白いと思った(そういう描き方は個人的に好みである)。さらに、円を象徴させることがらが非常に多く、物語全体をそのモチーフで貫いているあり方が気持よかった。例えば、円のモチーフや「円環の理」という言葉、第一話の映像で始まり、第一話の映像で終わるという一種の円構造など(あとは、ただのこじつけであるが、作中の音楽でワルツ(円舞曲)が流れていたのも面白いと思った。)。

 この作品を通して、まどかとほむらが決して同時に救われることのない世界が描かれていた。それどころか、まどかもほむらも、ほむらが世界を幾度繰り返しても、救われることは無かったのではないだろうか。いったい誰が救済されたのだろうか。
 私たちは物語のうちで決して救われることはない。私たちは、物語の終了とともにその世界から追い出され、いくら望んでも、それからの続きを知ることは出来ない。物語の終わりは、私たちが一時的に組み入れられた世界の終焉であり、すなわち私たちの、「物語の世界にいる」というあり方が全てその物語に対して閉ざされてしまう。私たちは、物語を繰り返すことでしか、その世界の中にあり得ず、物語の終焉とともにその外へと追い出される。物語のうちで運命を持たない私たちは、そもそも救済の対象とはなりえない。しかし、救済されるのは、そもそも私たちの視点でなければありえない。というのも、映画の全体を通して、すべての人物の交流をすべて見て、そのうえで物語の最後に置かれた誰かの運命が浄化されるのをみて、私たちが救済されたと思うのだ。救いは物語中で誰かに与えられるかもしれないが、その救いを感じることが出来るのは、救われた誰かではなく、常に俯瞰する私たちでしか無い。
 終わりの全てがよくなければ終わりはよくない。全て良くなければ、決して終わりは良くなることはない。登場人物を取り巻く世界が救われない限りは、俯瞰する私たちも決して救われることはない。そういう意味でまどか☆マギカは、誰ひとりとして、それはわたしたちを含んだうえで、決して救済のない物語であったと思った。