2013年10月14日月曜日

感情および情念に関して、思うところ

 さいきんは音楽哲学的な話題が多かったので、一度もともとの関心に振り返ってみようと思う。その対象は「感情」と呼ばれているものである。そもそも、私は感情の外延を記述するのに、一般に感情によって作られ得ると考えることのできそうな芸術に目を向け、そこからさらに振り返って感情を考えることができないものか、と思い芸術、とくに音楽について考えてみようと思ったのではあるが。

 いわゆる「感情」や「情念」というものに関してであるが、はたしてそれらは一体どこからどこまでがそう呼ばれるものなのだろうか。「悲しい」は情念であると言われても、およそ誰も疑うことはないであろうが、「つらい」や「痛い」は情念に含まれるのか、およそ生起する形容詞的なものは情念に含まれうるのだろうか、等々の疑問は生まれて止むことはない。感情の外延や内包を正しく定めることも一つの大きな問題となるのである。以下では情念の諸性質を見てみることにする。
 情念はかならず言語化されている。私たちが情念を捉える時、かならずそれは言葉によって記述される形であらわれる。逆に、言語化されていないものは情念とはいえない(私は言語化以前のものを感情として区別している)。言語化されている以上、情念は有限の種類しかなさそうに思われる。通常使われ得る情念語彙は、私たちの日常生活における語彙の集合より大きい集合となることは考えづらく、日常生活における語彙も有限であることからもそれが言える。これに関して、デカルトは『情念論』において、情念を全て数え上げていると言明していることなどからも、(権威主義的ではあるが)証明されていると考えられよう。

 さて、情念についてすこし詳しく見ていくことにしよう。上では、情念は言語化されていると述べられたが、情念は「感情が言語によって表現されたもの」として一応の定義付けができるだろう。私達はふだん、「なんとも言いがたい情念」と呼ばれるものを抱くことがある。これは確かに「なんとも言いがたい」という形をもって表現されたものであるから情念であるが、たほうそれは情念以前のものでもある。それは完全に輪郭付けられていない情念であって、うまく情念語彙と対応付けられていない。情念でありながら、完全な情念ではなく、欠落した情念である。こうした欠落が起こりうるのは、情念が情念それ自身として心的実在であるからではなく、なんらかの基礎をもつ、表現であるからであろう。その基礎が感情であって、それは言語的規定を一切欠いている。すなわち、あえて循環的な定義をするならば、「感情とは、言語による表現が与えられることによって情念化する以前の、生の素材である」。
 何らかの外的原因によって感情は、私たちの言語の光が届かない海底のうちで生まれ、やがてその発生の衝撃が波を作り、海面において情念として把握されるに至る。比喩を用いればこのようになるであろうが、およそそうした次第である。この比喩における波が、感情から情念への写像のようなものであり、同時に私たちの認識能力であるといえる。
 感情から情念に至るには、感情が「何であるか」を知る必要がある。感情は言語的規定を欠いているので、それが「何であるか」を明示的に知りうることは不可能である。たほう感情は私たちの心のうちで、なんらかの仕方で私たちの思考や行動に影響を及ぼす。主題的な形で私たちに影響を及ぼすのではなく、私たちにおいても知らず知らずのうちに、根本において感情を暗黙のうちで了解している。その暗黙の了解の様式が、私たちに情念として知られるのである。輪郭付けられていない情念は、その様式が混乱した形で、あるいは複数の様式が入り乱れている場合に現れうるのではないだろうか。

 感情から情念に至る際に混乱があるのは、なにも認識能力の波が途中の障害物に邪魔されて乱されることばかりに原因があるのではないかもしれない。感情から情念への対応が必ずしも一対一では無い、ということがその原因ではないと私は考える。感情を連続的な点の集合として考え、情念を場のようなものだと考える。つまり、近接した感情は同一の、あるは近接した情念として与えられる。色のグラデーションが与えられた実数の平面のように考えれば良いかもしれない。その際に、情念と情念の間、例えば赤と黄色の間にあるオレンジの部分、そこに私たちの感情が落ち込んだ時、混乱が生じて輪郭を失った情念が現れるのではないだろうか。

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