2013年9月10日火曜日

言語と意味について

 言語の集合 L と文章の集合 S を考える。ある言語 l で書かれた文章 s が存在したとする。文章がうまく要素ごとに区切ることが出来たとして、各要素を自然数と対応させる。
 例えば、 を素数とし、 であるとする。これをもとに文章を区切った各要素を「語素」として、以下のように対応付ける(ただし、は十分に大きな素数であるとしておかなければ、語素と自然数との対応関係が一対一で無くなる可能性がある)。
 :文の主語
 :文の述語 ……など
 このとき、例えば  を「鉛筆が」のように対応させ、語素と自然数が一対一に対応するようにしておく。このとき、 に対し、



という文章と自然数の対応が得られる。が、これは結局ある言語における文の集合から自然数への写像  を考えたことになる。なお、この対応関係は一体一なので、逆に自然数を与えればある言語の文(あるいは単語のみかもしれない)を得ることが出来る。このとき、ある言語の文に対応付けられた自然数を、その「文の意味」と呼ぶことができるのではないだろうか。

 以上のような考え方の問題点として、ある言語から別の言語へ、自然数を介して翻訳することが可能になるかもしれないが、それは必ずしも保証されていない。例えば、古典ギリシア語などにみられる小辞は、日本語においては翻訳しづらい言葉、あるいは意味を持たない言葉のように扱われることがあるが、それは古典ギリシア語を母語とする人々にとっては違った扱われ方をしていたかもしれない。その時、古典ギリシア語を母語とする人々にとっての「文の意味」の値と、日本語からみた「文の意味」の値は変わってしまうのではないだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿