2013年8月7日水曜日

音楽文法

 最近は音楽に関することを考えることが多い。先日、生成文法に関する本を読んで、そこで思ったことをまとめておこうと思う。

 言語に関して、普遍文法のようなものを想定することが出来るならば、音楽に関しても同様の説明を与えることが出来るのではないだろうか、と考えた。もちろん、同様というのは、音楽もなんらかの普遍文法的な、なんらか生得的な規則に則って構築されていると考えることができるのではないか、という意味である。というのも、私たちは音楽をある種の方法で学んで、それを聴取するために努力したといったことはなく、与えられた音の連鎖という有限の証拠をもとに、様々な音楽を音楽として聴取することが可能になっているからだ。この「文法的」な構造に従うことで、一連の音の流れに「意味付け」を行うことができ、私たちはそれをひとつの音楽作品とみなすことが出来る、というわけだ。
 確かに私たちは聴いたことのない音楽をひとつの音楽作品とみなすことができるし、それはア・プリオリに聴取され、音楽だと理解されていそうなのである。また、対位法などのような作曲における「文法的」事柄がすでに整備されているということも注目に値するだろう。

 しかし、いくつか疑問点も同時に浮かぶ。うまく説明出来ているからといって、このアナロジーが必ずしも正しいとは限らない、ということ。また、私たちは音楽として聴取できないいくつかの作品を挙げることができる、ということだ。前者についてはあまり大きな問題点には成り得ないだろう。言語とのアナロジーによって生じた問題点は適宜訂正していけばよいと思う。後者については、やや大きな問題(すなわち音楽作品の外延決定の問題)を同時に孕んでいる。これは解決が難しいだろう。また、これは生成文法に対しても当てはまる批判であろうが、そうした生得的なものとして文法を扱ってしまってもよいのだろうか。文法とは、常に現状の説明でしか無いのではないか。生得的な文法構造が存在するなら、文法的に破格な言葉遣いというのはそもそも存在し得ないのではないだろうか(もちろん、そうした破格をも包摂するかたちの「文法」がほんらい生得的な形であたえられている、という説明もありえる)。

 以上の考えは読書中の雑感でしかないが、一つの考え方としてはなんだか面白そうだとは思った。



[追記]
 同じような考えは無いかと探してみると、やはりあるものですね。内容までは読んではないですが、Fred Lerdahl, Ray S. JackendoffA Generative Theory of Tonal Music [1996] にあたりました。またじっくり読んでみようとおもいます。