2013年7月6日土曜日

ルバート、音楽、同一性

 私はクラシック音楽を聴くのが好きだ。好きといってもそれほど詳しいわけでもないし、クラシック音楽といってもほとんどショパンばかり聴く。いろんな演奏者を聴くわけではなく、なんとなく持っている音源を何度も聴いている。それでもたまにいろんな演奏が聞きたくなって、インターネット上で演奏動画を探してはいろいろ聴いて、好みの演奏を探したりもする。好みの演奏と言っても、私はそれほど自らの感性に自身は無いので、テンポやアクセント、ルバート奏法によるそれぞれの音の伸ばし方、音の粒の揃い等々にとどまり、あまり深いところまで理解することは出来ない。ただぼんやりと、「この曲はこのくらいのテンポで、そうそうこの音はアクセントをつけて……」という自分ならこう演奏したいという、なんらかの心地よさを味わうようにしているにすぎない。
 クラシックの曲は特に、演奏者によって演奏時間は大きく異る。同じ曲も、一分で演奏する人もいれば、二分半かけてゆったりと演奏する人もいるだろう。曲中のある音を、一人の演奏者は 1 秒も伸ばさない程度の演奏をするが、別の演奏者は3秒程度伸ばすようにじっくりと味わうように弾く人もいる。曲それぞれは、まったく違うものになる。

 ここでちょっとした疑問が浮かぶ。私たちはなぜそれぞれの演奏を「同じ」曲だと理解でき、それらに好みの度合いを振り分けることが出来るのだろうか。どのようにしてその「同じ」は保たれているのだろうか。私たちは曲を聴いている時に、「これは夜想曲の何番だ」と安心して聴くことが出来るのだろうか。前半部分は夜想曲であっても、後半からはスケルツォになるかもしれないというのに……。

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