2013年7月28日日曜日

コンサートホールにて

 例えば私がコンサートホールでショパンのエテュードを聴いていたとしよう。演奏中に誰かの携帯電話がなった。私はマナー違反をするものがいるものだ、と腹を立てるだろう。このいらだちに注目してみよう。
 それは、携帯電話の音が音楽作品ではなく、むしろ音楽作品を妨げているからだ。なぜ妨げているということが分かるのかというと、私はショパンのエテュードを好んで聴き、その音楽作品が「こういう音の連鎖である」と知っているからである。
 ここにただちに二つの疑問が浮かぶ。まず第一には、音楽作品を初めて聴いた時、携帯電話が音楽作品に含まれていない、ということを主張するのが難しくなりはしないか、といことである。もちろん、「客席の側から聞こえた」とか「演奏されているのはピアノのみからなる曲である」という点から反論は可能である。しかし、携帯電話の音を作品に取り入れた音楽作品を初めて耳にした時、私たちは一体いかにして雑音と演奏を区別するのだろうか。
 もうひとつ、論点はそれと重複するところもあるが、ジョン・ケージの「四分三十三秒」という曲に関してである。そこでは、音楽作品は聴衆をも巻き込む壮大なものとなる。そこには、規範性を一切欠いた作品しかのこらない。依然として「音楽作品はどこにあるのか、またどういうものなのか」という問いがまた強い意味を持つのではないか。この問いに私たちはどう答えていくべきだろうか。

2013年7月6日土曜日

ルバート、音楽、同一性

 私はクラシック音楽を聴くのが好きだ。好きといってもそれほど詳しいわけでもないし、クラシック音楽といってもほとんどショパンばかり聴く。いろんな演奏者を聴くわけではなく、なんとなく持っている音源を何度も聴いている。それでもたまにいろんな演奏が聞きたくなって、インターネット上で演奏動画を探してはいろいろ聴いて、好みの演奏を探したりもする。好みの演奏と言っても、私はそれほど自らの感性に自身は無いので、テンポやアクセント、ルバート奏法によるそれぞれの音の伸ばし方、音の粒の揃い等々にとどまり、あまり深いところまで理解することは出来ない。ただぼんやりと、「この曲はこのくらいのテンポで、そうそうこの音はアクセントをつけて……」という自分ならこう演奏したいという、なんらかの心地よさを味わうようにしているにすぎない。
 クラシックの曲は特に、演奏者によって演奏時間は大きく異る。同じ曲も、一分で演奏する人もいれば、二分半かけてゆったりと演奏する人もいるだろう。曲中のある音を、一人の演奏者は 1 秒も伸ばさない程度の演奏をするが、別の演奏者は3秒程度伸ばすようにじっくりと味わうように弾く人もいる。曲それぞれは、まったく違うものになる。

 ここでちょっとした疑問が浮かぶ。私たちはなぜそれぞれの演奏を「同じ」曲だと理解でき、それらに好みの度合いを振り分けることが出来るのだろうか。どのようにしてその「同じ」は保たれているのだろうか。私たちは曲を聴いている時に、「これは夜想曲の何番だ」と安心して聴くことが出来るのだろうか。前半部分は夜想曲であっても、後半からはスケルツォになるかもしれないというのに……。

2013年7月1日月曜日

一年前の夏

 昨年の夏の真っ盛り、綺麗な青空だったのをよく覚えているけれど、その日私は童心にかえったかのように自転車を乗り回した。目的も何もなかったのだけれど、四時間ほど大きな円を地図の上に描いてあちこち走り回った。
 行ったことのない町の、見たことの無いスーパーに入るのが好きで、いろいろ品物を見て回っては何も買わずに帰る。そういうのを二、三回繰り返した。
 あの日はほんとうによく覚えている。朝顔も綺麗に咲いていたし、通った道もほとんど思い起こせる。住宅街に紛れたり、きれいに舗装された川沿いを走ってみたり。途中で工事に出会ったり、通った道に再会したり……。

 あの日がとても素敵だったことは、今でもよく感じられる。では、こうした体験がなぜ私にとって素敵に感じられるのだろうか。経験に対して、なぜ美的な感覚を抱くのだろうか。
 いま一つ考えられるのは、こうした一連の出来事が、日常とは一切文脈を共有していないということだろうか。つまり、その「非日常」的なありかたである。私はあまり休みの日に外出する人間ではないので、そうやって自転車であたりを走り回るという経験はめったにしない。しかし、ここで「日常」とは一体どういうことなのだろうか、という疑問も浮かぶ。私の生活は、毎日が微妙に異なっている。それをすべて一つの日常として束ねることが出来るのは、一体何によってなのだろうか。