2013年4月29日月曜日

ことば

 私たちは文字とことばによって浸されている。
 普段本を読まない人であっても、気づけばどこかしらで文字を読み、文字に触れ、文字を綴り、そして文字を大事にする。ことばを発し、ことばを受け取り、ことばを胸にしまい込む。英語であれ、日本語であれ、その他諸外国語であれ。私たちは文字を愛して生きている。ことばに恋して生きている。それも熱心に。

 文字は大きさを持っていない。与えられた文字は、紙の上にちょこんと、可愛らしくおさまる。しかし私たちの持つ文字という概念には、そもそも大きさというものは必要ではない。頭の中で綴る "hello!" は、どれくらいの大きさなのだろうか。それを具現化すれば、どれくらいの人がそれを見ることができるだろうか。そしてどれくらいの人がそれに答えられるだろうか。

 私たちの祖先がことばを生み出してからどれほどの時が流れたのだろうか。人類の歴史においてそれはどれほどの長さを占めているのか、私にはわからないし、ブラウザのタブを新たに開いてそれを調べるほどの気力も無い。ことばは生まれてから、私たちに支配されると同時に、私たちを厳しく支配してきた。私たちがことばに対してする以上に厳しく。私たちは彼らを利用することによって思考をし、表現し、そして通じ合う。ところがこれは裏を返してみれば、我々の思考は、表現は、交通は、厳しく言葉によって律せられている。知らないことばを話す人達に、どのように関わるべきなのだろう。
 《他者》とは、わたしの「言うことをきかない」者、けっして私の思い通りにはならない、不可解きわまりない者のことである。(立川健二・山田広昭『現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』1990, 新曜社)
  こんなにも他者を恐れている。ことばと意味を共有しないだけで。私たちが理解しあえない、ごくごく小さな理由のひとつかもしれない。だからといってことばがひとつだけだったとしたら、その世界は平和だったかどうかは疑問符が絶えないと思う。

 もしこの世に、というよりもカギカッコをつけた「世界」に、死んだ人がみなそこへ行き、幸せに暮す天国というものがあるのならば、みんなが仲良く過ごす天国があるのならば、そこではどんなことばが、どんな文字が使われているのだろう。

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