2013年4月15日月曜日

一枚

 時間はいつも連続しているように見える。けれども、あまり詳しいことは知らないのだが、物理学の世界ではどうやら時間は紙、あるいはもっと薄い膜を重ねたような構造になっているとか。どういう意味でかは知らないが、観測して有意味になる範囲がそうなのだという。

 連続した時間と積み重ねの時間。生活の時間と物理学の時間にはこうした違いがあるように思われる。哲学者の時間は、どちらかと言えば物理学の時間に近い。哲学者、あるいは哲学的な議論を好む人達にとって、生活の時間とは「無い」ものになる。
 過去は「もうない」、現在は「存在の幅がない」、未来は「まだない」ということになり、三つの時間様相のすべてが「ない」ことになる。(植村恒一郎『時間の本性』2003, 勁草書房)
  時間は私たちの実感として「ある」ものである。だけれども、我々が連続的と考えている生活の時間において、「存在の幅がない」のだろうか。「無さ」の上に着陸してしまうものなのだろうか。

 私たちの実感として、今は「ある」し、過去は「あった」もので、未来はやがて「ある」。「ある」という実感。時間に対してはこうした肯定がある。連続を契機する点に、私たちは実在性を求めているのだろう。結局、そうした意味において私たちの時間は一枚を重ねているようなものかもしれない。

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