2013年11月8日金曜日

網目の音楽作品

 以前、規範と実演としての音楽として、音楽作品を規範と実演という二様態に分けて考えた。このとき、規範の側は主に楽譜のようなものを想定していたのだが、大学で渡辺裕先生の芸術学の講義を受けて、楽譜は規範足りうるかどうかについて疑問を持った。さらには、こうした二分法的な考えにおいて、捉え損なわれる音楽作品があるのではないか、ということについて考えた。まずは、先生の講義内容を簡単にまとめ、そののちで考えたことを記そうと思う。

 その講義においては、おもに編曲という観点が中心となっていた。つまり、編曲においては何かあるオリジナル作品が存在して、そこからの一種のコピーないしは別の作品としての創作として捉えられがちであるが、そうした原曲と編曲の境界線のようなものが明確に引く事が出来るのかどうか、ということが問題とされた。
 そもそも楽譜は、明確に演奏法を定めたものであるかどうかすら疑わしいという。その際に Chopin, Nocturne, op. 15-2 を例として用いる。
 一つ目の図にあらわれる、 2 小節目の右手の 16 分音符のフレーズは、似たような形で、しかし少しリズムを変えながら再び 49 小節目、すなわち二つ目の図のように現れる。この二つのフレーズは、二回目だからリズムを変えた、というのも考えうるが、実際の演奏はその都度適宜リズムが変えられ、たまたま記譜されたリズムがこの形だったとも考えられる、ということである。すなわち楽譜は、それが明確な規範としてあるのではなく、あくまでも演奏に際してどのように音が並べられていたかを示すもの(もっと強く言えば演奏の一例)でしか無いとさえ言える。
 このように語られたとき、楽譜が「規範と実演」という音楽作品相互指示によるネットワークの中心に位置づけられるのではなく、もはや楽譜はその中心から退き、中心のないただの網の目となる。ただ楽譜と各演奏が等価として、その支持関係で結ばれていることになる。
 さらに重要なのは、ここにさまざまな編曲などが含みこまれ得るということである。その編曲はどこまで含まれるかは、別の議論が必要となるだろうが、例えば楽譜の音の並びはそのままで、楽譜がしめすリズムとずれていても、それは同一の曲として指示されているであろうが、やはり規範とのズレがあるため編曲の一種といえる。そのとき、こうして演奏された音楽はやはり音楽作品の網目に組み込まれている。ヴィルトゥオーソ的な文脈で、即興的にアレンジされた演奏も似たような形をとるであろう。さらには、ここにはそうしたアレンジを記した楽譜も、もともとの曲を指示するものとして組み込まれ得る。「楽譜が絶対的なオリジナリティを保っている」という命題は疑い得るようになる。

 「一つの音楽作品」の外延は、以上のように非常に広いものとなる。それと同様に、「同じ曲」という概念がどこまで及ぶのかも曖昧である。以上のように、ネットワークのように音楽作品を考えるなら、楽譜の中心的規範性を保ったまま議論することも出来るように思われる。例えば、楽譜どうしのネットワークを考えればそれでよく、各楽譜を実演が指示している形としても考えられる。一つの楽譜の中心性は失われつつ、それでも楽譜の規範性は維持されている。可能ならば、仮想的に楽譜を想定することができるだろう。

 一つの音楽作品は、それぞれが宇宙のように広がっている。一つの音楽作品の限界を提示することそのものは不可能なのだろうか。

2013年11月5日火曜日

解釈の余白について

 先日、まどか☆マギカの映画を観た際にも思ったことであるが、私たちはある表現された対象に対して、そこに複数の意味を見出すことができる。映画においてそのような視点が可能であるのに対し、ではほかの芸術についてはどうか、と考えた。こうしたことについて考えたことをひと通りまとめて記そうと思う。

 同じ記号について、それがコンテクストを理想的に備えていない限り、その記号は、それを認識する複数の主体にとってそれぞれ意味が異なりうる。それと似たことで、記号の複合的なあり方、例えば音楽や会話において、我々は多様な受け取り方が可能となる。その解釈における多義性を、「余白」と呼ぶこととする。
 例えば、日本人は発話において、伝えたい内容を全て言い切ることはしない、とよく言われる。それに対し、欧米人は明確に相手に伝えようとする。これも解釈の余白の問題であると考えられる。日本人の発話は欧米人のそれに比べて解釈の余白が広いと言える。あるいは、三味線の古い楽譜においては、音の長さは記されていなかったという。それに対し、五線譜は音の高さや長さなどを規定しているぶん、日本のものよりも解釈の余白が狭いといえるかもしれない。

 音楽においては、音の配置や音の強さ、あるいは柔らかいとか鋭いとかいったような音の性質をもって、私たちは悲しみが表現されているとか、楽しい感じの曲であるとか言ったりすることが出来る。これもまた解釈の余白の問題といえるかもしれない。音楽において、「何を表現しているか」ということを一意に伝えることはまず不可能である。そうしたことが可能であるならば、音楽はすでに暗号と化していると言える。「何を表現しているか」を一意に伝えることは出来なくても、その表現しようとしていることを中心とした(あるいはもう少し弱い条件で、表現しようとしていることを内に含んだ)ある領域を表すことは出来る。単調で激しければ我々は怒りを想像するだろうし、長調で穏やかであれば何か楽園のようなものを見出すだろう。そうした音楽において制限されたあり方は、言ってみればキャンバスの一部だけが白く、まだ完成していない絵画のようなものであろう。私たちは、絵画のうち描かれていない部分を、多様に、しかし絵全体によってある程度の制限をうけた想像によって補うことができる。ただし、上の例で理解するにおいて注意すべきことは、私たちが聴取することによって音楽作品ははじめて完成するというわけではない(もちろんそうした見方も可能であろう)。また、そういうからと言って、音楽芸術は、音楽作品の完成したかたちがそのように余白があるという意味で絵画芸術に劣るというわけでもない。絵画においても、同様の余白はあるものの、それが(視覚という認識能力の性質によるのだろうか)比較的小さいということである。
 映画鑑賞は、絵画芸術と同様に視覚的な芸術であろうが、解釈の余白は非常に大きいと思われる。映画においては、物語の進行を記す部分(主にスクリーン上で人間が映る部分)の他に背景となる部分が大きい。背景は、言ってしまえば何でもいいのだが、物語が進むにおいてふさわしい背景が選ばれているはずである。そうすると、私たちは物語の進行以外に、背景に視線を写して、そうした物語の進行を示唆するような何かを探すことも出来る。そのとき、物語の進行の外に意味が幾重にも重ねられる。そのように、映画においては背景となる映像がそのまま余白になり得る。
 しかし、このままでは、意図して描かれているものと意図されずして示唆するものとは一切区別がつかない。意図して描かれたところが解釈の余白となるとは考えづらい。もちろん、「意図というものは、作品が作者の手から放たれた瞬間に一切考えられなくなる」と考えて、あらゆる背景を余白とすることもできる。しかしこのとき、音楽において、「およそこのように聴取されるであろう」(あるいは「ここは怒りとして聴取されるべきである」といった強い意図もありうるだろう)という意図のもとで表現された部分も、「おおよそそのように聴取されるべきである」という「常識」から逸脱して解釈が可能になるだろう。
 この問題は、芸術における作者の意図に纏わる問題と近づけて考えることが出来るだろう。

2013年11月3日日曜日

救済なき物語

 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語を観た。テレビ版の放映からずっと好きな作品が完結してしまったので、私の中の物語がまた一つそこで止まってしまった。観た感想めいたものと、それをみて考えたことを、粗雑なことではあるがかんたんに記しておこうと思う。映画や小説などの作品に対して、外的なものを持ち込んでその作品をよく理解し、批評しようという立場はあまり私の好みではないので(もちろんそうした立場を否定するわけではない)、内容にはあまり深く踏み込まずに、映画を観た私の側で現れたことについて書こうと思う。いわゆるネタバレはあまり多くはないと思うが、感想にはもちろん内容もある程度含まれることになると思うので、注意していただきたい。

 まずは軽く映画を振り返ってみようと思う。
 私は映画をあまり観ないのだが、こうしてたまに観るたびに驚く。映像の細やかな動き、それに合わせた効果音、更には背景で流れる音楽。これらが一つになる素晴らしさを感じる。そして物語の世界がそこで一つ完結する。観るたびに思うことではあるが、やはりなかなか映画を観るようにはならない。
 作品についてであるが、最初の数分は少し戸惑った。というのも、アニメ版第一話の映像から始まるのだが、まどかをはじめ、他の魔法少女の指にはめられた指輪が強調される。そうした点において、映画の前編二作において構築された世界との繋がりが見えにくいからだ。
 音楽については三拍子のものが多く(印象に残ったものが三拍子だったためであるが、三拍子ではない曲があったのかどうかは把握していない)、映像もそれに合わせてであろうか、ミュージカルや劇のような始まりをしたのが非常に印象的だった。魔法少女への変身においても、音楽とやや眺めの踊りのカットによってそれがなされるのが今までと違ってみえた。変身の最後の一瞬に、それぞれの少女が魔女となる時のモチーフのようなものが現れたのも強く記憶に残っている。
 そうした演劇調の表現が、中盤になってほむらの創りだした世界であることが明らかにされ、物語は終盤へと向かう。映画の最後には、まどかが再構築した世界がさらにほむらによって書き換えられ、アニメ版第一話の学校のシーンが、微妙に違う形で、繰り返される。第一話に描かれた場面で、映画の幕も閉じられることになる。

 映画は素晴らしかった。映像やらのどこがすごいなどのような褒め方は出来ないので、いくつか気になったことを挙げることにおいて感想を述べたこととしよう。
 物語が幾重にも重なっていた。例えば、この作品も、前編一作目のようにアニメ版第一話の情景から始まり、アニメ版第一話の情景で終わる。ほむらの魔法のように、幾度と無く同じ時間を私たちが体験していることになる。その描き方が面白いと思った(そういう描き方は個人的に好みである)。さらに、円を象徴させることがらが非常に多く、物語全体をそのモチーフで貫いているあり方が気持よかった。例えば、円のモチーフや「円環の理」という言葉、第一話の映像で始まり、第一話の映像で終わるという一種の円構造など(あとは、ただのこじつけであるが、作中の音楽でワルツ(円舞曲)が流れていたのも面白いと思った。)。

 この作品を通して、まどかとほむらが決して同時に救われることのない世界が描かれていた。それどころか、まどかもほむらも、ほむらが世界を幾度繰り返しても、救われることは無かったのではないだろうか。いったい誰が救済されたのだろうか。
 私たちは物語のうちで決して救われることはない。私たちは、物語の終了とともにその世界から追い出され、いくら望んでも、それからの続きを知ることは出来ない。物語の終わりは、私たちが一時的に組み入れられた世界の終焉であり、すなわち私たちの、「物語の世界にいる」というあり方が全てその物語に対して閉ざされてしまう。私たちは、物語を繰り返すことでしか、その世界の中にあり得ず、物語の終焉とともにその外へと追い出される。物語のうちで運命を持たない私たちは、そもそも救済の対象とはなりえない。しかし、救済されるのは、そもそも私たちの視点でなければありえない。というのも、映画の全体を通して、すべての人物の交流をすべて見て、そのうえで物語の最後に置かれた誰かの運命が浄化されるのをみて、私たちが救済されたと思うのだ。救いは物語中で誰かに与えられるかもしれないが、その救いを感じることが出来るのは、救われた誰かではなく、常に俯瞰する私たちでしか無い。
 終わりの全てがよくなければ終わりはよくない。全て良くなければ、決して終わりは良くなることはない。登場人物を取り巻く世界が救われない限りは、俯瞰する私たちも決して救われることはない。そういう意味でまどか☆マギカは、誰ひとりとして、それはわたしたちを含んだうえで、決して救済のない物語であったと思った。

2013年10月22日火曜日

音楽理論と鳥の声

彼[スティーヴン・フェルド]は、パプアニューギニアのカルリの人々が、旋律を滝で、旋律の終わる音(終止音)を滝壺で表していることに気がついてから、「見えない理論」がここでもきわめて精緻な形で存在していて、人々が滝や木の幹や枝、あるいは、鳥の声などを使って音楽理論について語り合っていることを知るようになったのである。(徳丸吉彦、蒲生郷昭「見えない理論−−音楽の理論・楽器・身体」、括弧[]は筆者による補足。)
  ここで語られている「見えない理論」とは、例えば和声学や対位法のような理論を含む、文字によって記されているような「見える音楽理論」に対し、無文字文化などでの音楽教育において、下手な演奏をしたり、(その文化において)「変な音」を使った演奏をしたりすると、教師からその都度、「時には言語によって、また、時には、睨んだり、怒ったり、ぶったり、という非言語的な手段」によって、「正しい音楽」へと是正されることによって表現されるような音楽理論である。そうした理論はまったく述べられることがなかったり、あるいは独自の用語で構成されていたりするのではない。まさに「鳥の声」のような、ごく一般的な言葉によって語られたりする。
 言葉というのは面白いもので、私たちの文化にあっても、鳥は歌う。まさに音楽ということがらを通じて、私たちは知らない文化の人々と考えを同じくする。ここになんとなく面白さを感じた。
目を醒ませ、フリードリーケよ
夜を追い払い、
おまえの瞳の輝きは、
朝へと変えてゆく
鳥たちの甘やかなささやきは
愛しき人よ、おまえを呼んでいる ...

 鳥と音楽の繋がりというのは、想像以上に深いものなのかもしれない。鳥は実際に「歌い」、そして私たちによって歌われる。音楽を離れて、詩の世界に至っても、鳥の一声は詩的世界に一つの音楽的情景を与える。しかし、私たちが鳥の声を「音楽」というとき、そこには私たちがほとんど意識しないまでに入り込んだ比喩があるのだろう。私たちはそのままの意味で、鳥の声を「音楽」だとは思っていないだろうし、思うことができないはずだ。とはいえ、これもはじめに引用した論文によれば、あるいは、私たちが鳥の「歌」に秘められた「見えない理論」に精通していないことによるのかもしれない。

 論文は、徳丸吉彦『音楽とはなにか −− 理論と現場の間から』(2008, 岩波書店)より。詩は Johann Wolfgang von Goethe, "Erwache, Friedrike" より引用。筆者による拙い訳で申し訳ありません。

2013年10月14日月曜日

感情および情念に関して、思うところ

 さいきんは音楽哲学的な話題が多かったので、一度もともとの関心に振り返ってみようと思う。その対象は「感情」と呼ばれているものである。そもそも、私は感情の外延を記述するのに、一般に感情によって作られ得ると考えることのできそうな芸術に目を向け、そこからさらに振り返って感情を考えることができないものか、と思い芸術、とくに音楽について考えてみようと思ったのではあるが。

 いわゆる「感情」や「情念」というものに関してであるが、はたしてそれらは一体どこからどこまでがそう呼ばれるものなのだろうか。「悲しい」は情念であると言われても、およそ誰も疑うことはないであろうが、「つらい」や「痛い」は情念に含まれるのか、およそ生起する形容詞的なものは情念に含まれうるのだろうか、等々の疑問は生まれて止むことはない。感情の外延や内包を正しく定めることも一つの大きな問題となるのである。以下では情念の諸性質を見てみることにする。
 情念はかならず言語化されている。私たちが情念を捉える時、かならずそれは言葉によって記述される形であらわれる。逆に、言語化されていないものは情念とはいえない(私は言語化以前のものを感情として区別している)。言語化されている以上、情念は有限の種類しかなさそうに思われる。通常使われ得る情念語彙は、私たちの日常生活における語彙の集合より大きい集合となることは考えづらく、日常生活における語彙も有限であることからもそれが言える。これに関して、デカルトは『情念論』において、情念を全て数え上げていると言明していることなどからも、(権威主義的ではあるが)証明されていると考えられよう。

 さて、情念についてすこし詳しく見ていくことにしよう。上では、情念は言語化されていると述べられたが、情念は「感情が言語によって表現されたもの」として一応の定義付けができるだろう。私達はふだん、「なんとも言いがたい情念」と呼ばれるものを抱くことがある。これは確かに「なんとも言いがたい」という形をもって表現されたものであるから情念であるが、たほうそれは情念以前のものでもある。それは完全に輪郭付けられていない情念であって、うまく情念語彙と対応付けられていない。情念でありながら、完全な情念ではなく、欠落した情念である。こうした欠落が起こりうるのは、情念が情念それ自身として心的実在であるからではなく、なんらかの基礎をもつ、表現であるからであろう。その基礎が感情であって、それは言語的規定を一切欠いている。すなわち、あえて循環的な定義をするならば、「感情とは、言語による表現が与えられることによって情念化する以前の、生の素材である」。
 何らかの外的原因によって感情は、私たちの言語の光が届かない海底のうちで生まれ、やがてその発生の衝撃が波を作り、海面において情念として把握されるに至る。比喩を用いればこのようになるであろうが、およそそうした次第である。この比喩における波が、感情から情念への写像のようなものであり、同時に私たちの認識能力であるといえる。
 感情から情念に至るには、感情が「何であるか」を知る必要がある。感情は言語的規定を欠いているので、それが「何であるか」を明示的に知りうることは不可能である。たほう感情は私たちの心のうちで、なんらかの仕方で私たちの思考や行動に影響を及ぼす。主題的な形で私たちに影響を及ぼすのではなく、私たちにおいても知らず知らずのうちに、根本において感情を暗黙のうちで了解している。その暗黙の了解の様式が、私たちに情念として知られるのである。輪郭付けられていない情念は、その様式が混乱した形で、あるいは複数の様式が入り乱れている場合に現れうるのではないだろうか。

 感情から情念に至る際に混乱があるのは、なにも認識能力の波が途中の障害物に邪魔されて乱されることばかりに原因があるのではないかもしれない。感情から情念への対応が必ずしも一対一では無い、ということがその原因ではないと私は考える。感情を連続的な点の集合として考え、情念を場のようなものだと考える。つまり、近接した感情は同一の、あるは近接した情念として与えられる。色のグラデーションが与えられた実数の平面のように考えれば良いかもしれない。その際に、情念と情念の間、例えば赤と黄色の間にあるオレンジの部分、そこに私たちの感情が落ち込んだ時、混乱が生じて輪郭を失った情念が現れるのではないだろうか。

2013年10月8日火曜日

規範と実演としての音楽

 音楽作品はいったいどこにあるのか、という問いについて、少し前に話し合う機会があったので、それから考えたことを、自明な事柄が多いようにも思えるが、少しまとめておこうと思う。

 音楽作品は以下の二つの様態を考えることができる。すなわち、一方は規範として、他方は実演としてである。どちらか一方のみを音楽作品と断言してしまうことには困難が付き纏うであろう。

 これらの関係を簡単に述べるとすれば、後者は前者に依存、あるいは前者に従う形で与えられている。おそらく、規範は実演よりも抽象度の高い音楽作品と言えるだろう。とはいえ、規範においては例えば音楽作品中の個々の音の長さなどは具体的に指示されておらず、程度の差こそあれ、演奏者によって実際に演奏されたそれぞれの音楽は規範的であると言えるかもしれない。そういう意味で実演が規範に従うという強い形ではなく、規範と実演が寄り添っている、互いに浸透しあっているとも考えられる。
 とはいえ、個々の実演が規範に寄り添うその仕方には、抽象性のジャンプが潜んでいる。実演は全て、各演奏者によって為された解釈に基づいて行われる。厳密に言えばその時点で規範からの逸脱が見られるはずである。しかし、それらは解釈を含んだ上でも規範に従った演奏である。その意味で、ある音楽作品の個別的な演奏は全て、その作品の規範へ立ち戻ったうえで理解されている。規範から個々の実演への指示のみならず、ここの実演がその規範を同時に指示している。つまり、「任意の実演的音楽作品に対して、それが規範的音楽作品へと立ち戻ることが出来るならば、それらは同一の音楽作品である」 と主張できるのではないだろうか。

2013年9月10日火曜日

言語と意味について

 言語の集合 L と文章の集合 S を考える。ある言語 l で書かれた文章 s が存在したとする。文章がうまく要素ごとに区切ることが出来たとして、各要素を自然数と対応させる。
 例えば、 を素数とし、 であるとする。これをもとに文章を区切った各要素を「語素」として、以下のように対応付ける(ただし、は十分に大きな素数であるとしておかなければ、語素と自然数との対応関係が一対一で無くなる可能性がある)。
 :文の主語
 :文の述語 ……など
 このとき、例えば  を「鉛筆が」のように対応させ、語素と自然数が一対一に対応するようにしておく。このとき、 に対し、



という文章と自然数の対応が得られる。が、これは結局ある言語における文の集合から自然数への写像  を考えたことになる。なお、この対応関係は一体一なので、逆に自然数を与えればある言語の文(あるいは単語のみかもしれない)を得ることが出来る。このとき、ある言語の文に対応付けられた自然数を、その「文の意味」と呼ぶことができるのではないだろうか。

 以上のような考え方の問題点として、ある言語から別の言語へ、自然数を介して翻訳することが可能になるかもしれないが、それは必ずしも保証されていない。例えば、古典ギリシア語などにみられる小辞は、日本語においては翻訳しづらい言葉、あるいは意味を持たない言葉のように扱われることがあるが、それは古典ギリシア語を母語とする人々にとっては違った扱われ方をしていたかもしれない。その時、古典ギリシア語を母語とする人々にとっての「文の意味」の値と、日本語からみた「文の意味」の値は変わってしまうのではないだろうか。

2013年8月7日水曜日

音楽文法

 最近は音楽に関することを考えることが多い。先日、生成文法に関する本を読んで、そこで思ったことをまとめておこうと思う。

 言語に関して、普遍文法のようなものを想定することが出来るならば、音楽に関しても同様の説明を与えることが出来るのではないだろうか、と考えた。もちろん、同様というのは、音楽もなんらかの普遍文法的な、なんらか生得的な規則に則って構築されていると考えることができるのではないか、という意味である。というのも、私たちは音楽をある種の方法で学んで、それを聴取するために努力したといったことはなく、与えられた音の連鎖という有限の証拠をもとに、様々な音楽を音楽として聴取することが可能になっているからだ。この「文法的」な構造に従うことで、一連の音の流れに「意味付け」を行うことができ、私たちはそれをひとつの音楽作品とみなすことが出来る、というわけだ。
 確かに私たちは聴いたことのない音楽をひとつの音楽作品とみなすことができるし、それはア・プリオリに聴取され、音楽だと理解されていそうなのである。また、対位法などのような作曲における「文法的」事柄がすでに整備されているということも注目に値するだろう。

 しかし、いくつか疑問点も同時に浮かぶ。うまく説明出来ているからといって、このアナロジーが必ずしも正しいとは限らない、ということ。また、私たちは音楽として聴取できないいくつかの作品を挙げることができる、ということだ。前者についてはあまり大きな問題点には成り得ないだろう。言語とのアナロジーによって生じた問題点は適宜訂正していけばよいと思う。後者については、やや大きな問題(すなわち音楽作品の外延決定の問題)を同時に孕んでいる。これは解決が難しいだろう。また、これは生成文法に対しても当てはまる批判であろうが、そうした生得的なものとして文法を扱ってしまってもよいのだろうか。文法とは、常に現状の説明でしか無いのではないか。生得的な文法構造が存在するなら、文法的に破格な言葉遣いというのはそもそも存在し得ないのではないだろうか(もちろん、そうした破格をも包摂するかたちの「文法」がほんらい生得的な形であたえられている、という説明もありえる)。

 以上の考えは読書中の雑感でしかないが、一つの考え方としてはなんだか面白そうだとは思った。



[追記]
 同じような考えは無いかと探してみると、やはりあるものですね。内容までは読んではないですが、Fred Lerdahl, Ray S. JackendoffA Generative Theory of Tonal Music [1996] にあたりました。またじっくり読んでみようとおもいます。

2013年7月28日日曜日

コンサートホールにて

 例えば私がコンサートホールでショパンのエテュードを聴いていたとしよう。演奏中に誰かの携帯電話がなった。私はマナー違反をするものがいるものだ、と腹を立てるだろう。このいらだちに注目してみよう。
 それは、携帯電話の音が音楽作品ではなく、むしろ音楽作品を妨げているからだ。なぜ妨げているということが分かるのかというと、私はショパンのエテュードを好んで聴き、その音楽作品が「こういう音の連鎖である」と知っているからである。
 ここにただちに二つの疑問が浮かぶ。まず第一には、音楽作品を初めて聴いた時、携帯電話が音楽作品に含まれていない、ということを主張するのが難しくなりはしないか、といことである。もちろん、「客席の側から聞こえた」とか「演奏されているのはピアノのみからなる曲である」という点から反論は可能である。しかし、携帯電話の音を作品に取り入れた音楽作品を初めて耳にした時、私たちは一体いかにして雑音と演奏を区別するのだろうか。
 もうひとつ、論点はそれと重複するところもあるが、ジョン・ケージの「四分三十三秒」という曲に関してである。そこでは、音楽作品は聴衆をも巻き込む壮大なものとなる。そこには、規範性を一切欠いた作品しかのこらない。依然として「音楽作品はどこにあるのか、またどういうものなのか」という問いがまた強い意味を持つのではないか。この問いに私たちはどう答えていくべきだろうか。

2013年7月6日土曜日

ルバート、音楽、同一性

 私はクラシック音楽を聴くのが好きだ。好きといってもそれほど詳しいわけでもないし、クラシック音楽といってもほとんどショパンばかり聴く。いろんな演奏者を聴くわけではなく、なんとなく持っている音源を何度も聴いている。それでもたまにいろんな演奏が聞きたくなって、インターネット上で演奏動画を探してはいろいろ聴いて、好みの演奏を探したりもする。好みの演奏と言っても、私はそれほど自らの感性に自身は無いので、テンポやアクセント、ルバート奏法によるそれぞれの音の伸ばし方、音の粒の揃い等々にとどまり、あまり深いところまで理解することは出来ない。ただぼんやりと、「この曲はこのくらいのテンポで、そうそうこの音はアクセントをつけて……」という自分ならこう演奏したいという、なんらかの心地よさを味わうようにしているにすぎない。
 クラシックの曲は特に、演奏者によって演奏時間は大きく異る。同じ曲も、一分で演奏する人もいれば、二分半かけてゆったりと演奏する人もいるだろう。曲中のある音を、一人の演奏者は 1 秒も伸ばさない程度の演奏をするが、別の演奏者は3秒程度伸ばすようにじっくりと味わうように弾く人もいる。曲それぞれは、まったく違うものになる。

 ここでちょっとした疑問が浮かぶ。私たちはなぜそれぞれの演奏を「同じ」曲だと理解でき、それらに好みの度合いを振り分けることが出来るのだろうか。どのようにしてその「同じ」は保たれているのだろうか。私たちは曲を聴いている時に、「これは夜想曲の何番だ」と安心して聴くことが出来るのだろうか。前半部分は夜想曲であっても、後半からはスケルツォになるかもしれないというのに……。

2013年7月1日月曜日

一年前の夏

 昨年の夏の真っ盛り、綺麗な青空だったのをよく覚えているけれど、その日私は童心にかえったかのように自転車を乗り回した。目的も何もなかったのだけれど、四時間ほど大きな円を地図の上に描いてあちこち走り回った。
 行ったことのない町の、見たことの無いスーパーに入るのが好きで、いろいろ品物を見て回っては何も買わずに帰る。そういうのを二、三回繰り返した。
 あの日はほんとうによく覚えている。朝顔も綺麗に咲いていたし、通った道もほとんど思い起こせる。住宅街に紛れたり、きれいに舗装された川沿いを走ってみたり。途中で工事に出会ったり、通った道に再会したり……。

 あの日がとても素敵だったことは、今でもよく感じられる。では、こうした体験がなぜ私にとって素敵に感じられるのだろうか。経験に対して、なぜ美的な感覚を抱くのだろうか。
 いま一つ考えられるのは、こうした一連の出来事が、日常とは一切文脈を共有していないということだろうか。つまり、その「非日常」的なありかたである。私はあまり休みの日に外出する人間ではないので、そうやって自転車であたりを走り回るという経験はめったにしない。しかし、ここで「日常」とは一体どういうことなのだろうか、という疑問も浮かぶ。私の生活は、毎日が微妙に異なっている。それをすべて一つの日常として束ねることが出来るのは、一体何によってなのだろうか。

2013年6月23日日曜日

分類と私たちの思考

 私たちは何かへの理解を深めるために、それがどういうあり方をしているか、という性質をさまざま調べあげて、どのように分類されるかということを考えることがある。そうした考え方というのはどれほど有益なのだろうか、ということが最近私がぼんやり考えていることだ。
 たとえば、砂糖というのは甘いという性質と白いという性質を持っている。そうして、砂糖に対して「甘く」て「白い」という述語付けを行うことが出来る。しかし、少し考えればわかるように、砂糖は甘くて白いだけではない。砂糖は水によく溶けるし、火にかければ溶ける等々の性質を秘めている。私たちが対象に対して述語付けをするうちには、砂糖は完全に捉えきれていない。もしかしたら、私たちにとって未知なる述語を秘めているかもしれない。
 砂糖に関してすべてを知ることができなくても日常生活にはなんら問題はないが、私たちが何かを哲学的に語ろうとした時、その取りこぼされてしまったことがらを無視することはけっして許されないのではないだろうか。
 今は砂糖という例をあげたが、私たちの認識においてはどうだろうか。私たちの認識は、一般に主観と客観によって構成されていると考えられる。だが、この主観と客観によってすべてが言い尽くされているのだろうか。これらの概念によって汲み取られていないことはないのだろうか。物自体に想いを馳せるような疑問ではあるが、すこし考えてみようと思う。

2013年5月12日日曜日

芸術とそうでないもの

 芸術と非芸術の境界線はいったいどこに、どのようにして引かれるのであろうか。
 芸術と非芸術に明確な線引きができるとすれば、芸術には、芸術的な、芸術の本質となるような何かが含みこまれている、と考えることが出来る。しかし、それはおそらく明確には規定され得ない。一般的に芸術とは何か、と定義づけることが出来ないならば、私たちは個別に作品を見て、それぞれを芸術と非芸術を分かたなければならないかもしれない。しかし、その個別にみるやり方も、結局その都度芸術のイデアのようなものを参照するやり方となってしまっている。

 私たちはひろく芸術に触れている。しかし、それは定義という確固とした概念形成の営みからはするすると抜け出して行ってしまう。音楽なら音楽においても、どこからどこまでが音楽なのか、という問題については現在も考えられているようだ。

 小説を読んで、「これは芸術作品だ!」と唸る人もいよう。しかし、それは一体どういう意味で芸術作品なのだろうか。
 あらゆる小説が芸術作品なのではなく、なぜその人が読んだ小説が芸術作品なのだろうか。漱石を、川端を、鴎外を芸術だと持ち上げても、ライトノベルに対してそうした評価を下すものはそう多くはないだろう。単に文字列であるだけではならない。芸術的でなければ。
 文章は鮮やか、透明感があったりする。もちろん比喩なのだろうけれども、それは一体どういうった意味でなのだろうか。文章に対する印象は、結局自分のもとで考えられたものにすぎない。主観を、芸術のみが通ることの出来る関所にしてしまってもいいのだろうか。
 芸術と非芸術の国境は、絶えず流れ続ける川のようなものなのかもしれない。

2013年4月29日月曜日

ことば

 私たちは文字とことばによって浸されている。
 普段本を読まない人であっても、気づけばどこかしらで文字を読み、文字に触れ、文字を綴り、そして文字を大事にする。ことばを発し、ことばを受け取り、ことばを胸にしまい込む。英語であれ、日本語であれ、その他諸外国語であれ。私たちは文字を愛して生きている。ことばに恋して生きている。それも熱心に。

 文字は大きさを持っていない。与えられた文字は、紙の上にちょこんと、可愛らしくおさまる。しかし私たちの持つ文字という概念には、そもそも大きさというものは必要ではない。頭の中で綴る "hello!" は、どれくらいの大きさなのだろうか。それを具現化すれば、どれくらいの人がそれを見ることができるだろうか。そしてどれくらいの人がそれに答えられるだろうか。

 私たちの祖先がことばを生み出してからどれほどの時が流れたのだろうか。人類の歴史においてそれはどれほどの長さを占めているのか、私にはわからないし、ブラウザのタブを新たに開いてそれを調べるほどの気力も無い。ことばは生まれてから、私たちに支配されると同時に、私たちを厳しく支配してきた。私たちがことばに対してする以上に厳しく。私たちは彼らを利用することによって思考をし、表現し、そして通じ合う。ところがこれは裏を返してみれば、我々の思考は、表現は、交通は、厳しく言葉によって律せられている。知らないことばを話す人達に、どのように関わるべきなのだろう。
 《他者》とは、わたしの「言うことをきかない」者、けっして私の思い通りにはならない、不可解きわまりない者のことである。(立川健二・山田広昭『現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』1990, 新曜社)
  こんなにも他者を恐れている。ことばと意味を共有しないだけで。私たちが理解しあえない、ごくごく小さな理由のひとつかもしれない。だからといってことばがひとつだけだったとしたら、その世界は平和だったかどうかは疑問符が絶えないと思う。

 もしこの世に、というよりもカギカッコをつけた「世界」に、死んだ人がみなそこへ行き、幸せに暮す天国というものがあるのならば、みんなが仲良く過ごす天国があるのならば、そこではどんなことばが、どんな文字が使われているのだろう。

2013年4月15日月曜日

一枚

 時間はいつも連続しているように見える。けれども、あまり詳しいことは知らないのだが、物理学の世界ではどうやら時間は紙、あるいはもっと薄い膜を重ねたような構造になっているとか。どういう意味でかは知らないが、観測して有意味になる範囲がそうなのだという。

 連続した時間と積み重ねの時間。生活の時間と物理学の時間にはこうした違いがあるように思われる。哲学者の時間は、どちらかと言えば物理学の時間に近い。哲学者、あるいは哲学的な議論を好む人達にとって、生活の時間とは「無い」ものになる。
 過去は「もうない」、現在は「存在の幅がない」、未来は「まだない」ということになり、三つの時間様相のすべてが「ない」ことになる。(植村恒一郎『時間の本性』2003, 勁草書房)
  時間は私たちの実感として「ある」ものである。だけれども、我々が連続的と考えている生活の時間において、「存在の幅がない」のだろうか。「無さ」の上に着陸してしまうものなのだろうか。

 私たちの実感として、今は「ある」し、過去は「あった」もので、未来はやがて「ある」。「ある」という実感。時間に対してはこうした肯定がある。連続を契機する点に、私たちは実在性を求めているのだろう。結局、そうした意味において私たちの時間は一枚を重ねているようなものかもしれない。