2016年12月17日土曜日

書簡集 13

 12 月 17 日

 また長らく便りを欠かしてしまって申し訳ない。為すべきことが一段落した。最近とみに寒くなった。何をするにも億劫な時期ではあるが、その分、何をしてもきらきらとしているような素敵な時期だと思う。君はどのように過ごしているだろうか。

……

 この前、ふと朝早くに目が醒めてしまった。まだ開ききらない目でもって時計を見れば、普段起きているよりも数時間早い。街はまだ目が醒めていない頃であった。部屋は朝の青い光に沈んでいた。私は半ば目醒め、半ば眠っている。予定も無い日だけにどうしたものかと、薄暗く散らかった部屋を見回しながら思った。
 ベッドから足を出すと、空気はピリッと冷たく、私の行為が発する以外の音は何もない。為すべきこともなく、ベッドから抜け出し、その向こうに設置されたピアノのための椅子に腰掛けた。そのまま何も考えずに鍵盤に向かった。いつも通り八十八鍵ある。鍵盤のそれぞれは、足が感じたのと同じ冷たさをしている。面白かった。
 半睡のまま、私は手に馴染んでいる曲を弾き始めた。手は思うように動かないし、普段とも感覚は違う。装飾音はあまりにも拙く、触れたい鍵盤の隣を撫でる有様である。それでもピアノを弾くには弾くなりの集中というものがあった。拙い演奏と空白の思考とは、私を過去に導くのに十分であった。私がかつてこのノクターンを練習していたころ、私は何を考えていただろうか。私は何を夢見ていたであろうか。私がかつてこのノクターンを練習していた年齢のころ、あらゆる人々は何を夢見ていたのだろうか。あらゆる人々は、いま何をしているのだろうか……。

 一曲を通じて、さまざまなことが朝に想われることになった。このすべてが夢であればいいのに、と思い、私はまたベッドへと戻った。このすべてが。

2016年12月8日木曜日

書簡集 12

 ふだんどれくらいの頻度で空を見上げるだろうか。長い道の向こう、ビルのすこし上にある空に、ふと目をやることは少なくはないかもしれない。だが、頭から、首から、腰から、ここの、この真上にある空を見上げることは、詩人風の人であってもそうは多くあるまい。

 きょう空の高さを改めて知った。どこかに見える空は決して高くない。それはもはや景色としての空であって、背景としての空にほかならない。君は空の高さを知っているだろうか。いま、ここから見上げられたこの空はとても高い。写真に写る空でもなく、どこかに見える空でもない。ただ、この真上にある空だけが高い。
 単純に比較対象の観点から語るならば、田舎の空よりも都会の空のほうが高いかもしれない。都会では、私を数十倍、数百倍した高さの建物よりも、比較を絶するほど空は高い。驚くべき高さである。ときおりこのように常識を思い出しては驚いている。

……

2016年9月18日日曜日

憂鬱の研究 fr. a

 白井には、好きだった一節がある。

 「神秘的で美しい響きを持ちながら、それでいて難解である詩句を前にして、慄える焦燥と緊張とに満たされて、静穏で晴れ渡った花園への扉を開くための鍵を、この辞書の内に見い出すに、いくら急いてみても間に合わない。ハンスにはしばしばそのように思われるのであった」。
 花園とは、なにもホメロスに満ちているわけではない。文字によって刻まれた、あるいはこれから刻まれるであろうすべてが繚乱する。霞にも紛うこの花畑は、祝福に満ちている。扉を開くものに向かって燦然と輝く春の自然である。見渡し尽くせないほどの色があり、名付け切れないほどの種があり、数え切れないほどの花がある。その花の一つ一つが永遠の輝きであり、また一つ一つのそれぞれが無限なる花園なのである。ヘッセがハンスにせしめたように、私たちもまた、その花園への扉を開かねばならず、さらには一つの花に包蔵された花園への扉を開かねばならず、その花園の中の一つの花に包蔵された花園への扉を開かねばならない。そうして無限に花園の中へと入り込んで行かねばならないのだ。私たちにとって、鍵は辞書に潜むひとつひとつのことばでしかない。鍵を手に取り、穴に差し込めば、ガチリと重い音を立てて、扉が軋みながら少しずつ開いてゆく……。

 文学的、あるいは神話的、あるいはさらに言ってしまえばたんなる時代遅れな夢想でしかない。夢想でしかなかったのである。いくらラテン語の辞書を捲くれども、そのことばはどれも埃をかぶってしまっている。鍵を差し込んで扉を開いてみても、その先に広がるのはやはりまた紙に染みたインクの黒ばかり。書を抱えてのそりのそりと歩く人間の横を、書などとうに打ち捨ててしまった人々が光の如くに通り過ぎてゆく。通り過ぎざま、いつまでも紙を抱えて千鳥足なのを、指さし、嘲笑する。ああ、ここは私の生きるべき時代ではなかったのか。生まれてくるのが早すぎた人間が天才と称されるならば、生まれてくるのが遅すぎた私は何と称されるべきなのだろう。そのように彼は思った。その答えを彼は知っていた。だが答えが聞こえるより先に耳を塞ごうとする。「我は凡ならず」と叫び、打ち消そうとする。そしてその都度、耳を塞いでいても聞こえるくらいに、あるいは彼の叫び声よりも大きな声で「お前は凡人だ」と返されることを彼はよく知っていた。そして、その叫び声の、最も大きな声主が彼自身であることも、彼はよく知っていた。その声が微かにでも聞こえ始めた時、あるいは聞こえるだろうと予感した瞬間、彼は自らの、もうひとつの、研究対象に出会うのである。
 憂鬱のもとに広がる世界の彩度の低さよ。辞書はもはや楽園への鍵束としての役割を失い、手に取られる各々の語は、おのれの心の内にのみ広がる世界を語り、再構成するばかりである。彼はいちいちその語を拾い上げた。« aufero », « cesso », « ipse », « iris », « rarefacio » そして « reddo » と続いた。彼は耐えきれなくなって、使い古され背の弱った辞書を手に取り、引き裂こうとした。しかし、それができないことは彼自身がよく知っていた。「平凡な」はラテン語で « vulgaris » ということを知った。

2016年6月21日火曜日

「実在」ではないどこか

したがって、これらの諸根拠の結論を認めよう。〔つまり、その結論は以下のとおり。〕まさに固有な特質 ratio によってであるように、〈この〉石に内在する措定的な或るものによって、下属する部分へと分割されることがそれに相反するということは必然である。そして、その措定的なものは自体的に、個体化の原因であると言われるところのものであろう。というのも、個体化ということによって、私は、分割不可能性ないし、分割可能性への相反を理解しているからである。(Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 57).
個別者とは何か。どこにいるのか。ふだん私たちが目にするものすべては個別者である。世界は個別者によって満たされている、という思考は、(一部の哲学者を除き)多くの人びとによって受け入れられることであろう。

 中世において広く議論された「個体化の原理」を考える際に、「個別者とはなにか」ということを考えておくことは、Gracia も指摘しているとおり重要なことである。「個別者は述語の束である」と考える哲学者は、おそらく「個体化の原理は質料である」と考える方向へは向かわないであろう。その哲学者にとって「個別者とはなにか」ということが、彼の個体化の原理の探求において重要な前提であると考えるのはおそらく正しいことであるといえる。

 上に引用したドゥンス・スコトゥスは、個体化を「下属する部分への分割への相反」を個体化として考えていた。「下属する部分への分割」とは、類を種へ、種を個別者へと分けるような分割のことである(詳しくは「スコトゥスと「二重の否定」説」を参照)。スコトゥスにとって個別者とは「人間という種に属するソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはなく、また人間という種に属する別の個別者であるプラトンから区別される」という例で表されるようなものである。ここを捉えれば、先にリンクした記事においても述べられたことであるが、個別者はこのような「二重の否定」(厳密に言えば、ヘンリクスに帰されている説が「二重の否定」であり、スコトゥスはそれを修正したしかたで受容しているのだから、「修正二重の否定」説と呼べる)を伴うものである。仮に「個別者」を「「修正二重の否定」説によって記述されるようなもの」として考えられるとしよう。そのとき、スコトゥスはそのような個別者を析出させる原理を個体化の原理としなければならないだろう。それは「述語の束」でも「質料」でもあり得ない。この問題に関するスコトゥスの特徴はこの点に存すると考えられる。

 上記引用において、スコトゥス自身は「ソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはない」という事態が個体化である、と考えている。このことは更に考察されるべきである。
範疇の体系に自体的に属するところのものはみな、その体系には決して属することの無いもの全てを除いて、その範疇の体系の内に在る。......それゆえ、本質の概念規定のもとにあるものを劃然と考察することで、類において最高のものが見いだされるように、中間の諸々の類、そして種や種差もが見いだされる。さらにそこでは、現実的な現実存在が全きしかたで取り除かれることで、最下位のもの、すなわち単一なものが見出される。このことは明証的に明らかである。というのも、「人間」が形相的に現実的な現実存在を含まないのと同様、「〈この〉人間」もそうだからである。(Ibid., q. 3, n. 63).
スコトゥスは、動物を人間へとする分割と、人間をソクラテスやプラトンへとする分割との間に根本的な差異を措定していない。そのことを考えると、「動物―人間―ソクラテス」のそれぞれは、なんらか共通の存在論的ステータスを有していなければならない。このことに関して、二通りの見解が可能であろう。すなわち、(1) 「動物」や「人間」といった類や種が、実在するソクラテスの方に引きずられ、何らか「実在的」というステータスを帯びることになるか、或いは (2) ここで言われているソクラテスが、必ずしも実在しているソクラテスではなく、類や種といった概念へと引きずられているか、このいずれかである。上記引用によれば、(2) の方針を採っているように思われる。スコトゥスが思考している「個別者」は、必ずしも実在を含んでいるわけではない。こうした「個別者」をどのように位置づけるか。類や種が論理学的志向 intentio logicalis として、すなわち概念として位置付けられることを考えて、仮に「論理学的」と位置づけることにする。

 論理学的個別者を考えることは、彼の個体化の原理についての学説に再考を迫る。個体化が「下属する部分への分割への相反」であり、下属する部分への分割というのが、類を種へ、種を個別者へ、という仕方で、「論理学的」なターミノロジーを用いて語られることを考えれば、個体化を「実在」の領域に閉じ込めてしまうことには問題があると考えられる。彼の個体化を考えるならば、ここでは「論理学的」と名付けた、実在ではないどこかを想定する必要があるだろう。そこを「論理学的」と名付けることが正当であるのかどうかもまだ疑われることであるが。

 一般に、ある哲学者の個体化の原理を考察する際には、その哲学者が個別者に関してどのような見解を有しているのか、ということを見ることは有益である。それどころか、必要不可欠であるとも思われる。「個体化の原理」ということばこそはひろく流通していたものであるが、少なくとも中世では、そのことばをどう解するかということにおいて、一致があったわけではない。個体化の原理の探求が、どういうことがらに関わっており、その当の哲学者の体系においてどのように位置付けられるか、ということをみる際、その哲学者の個別者についての理解を併せて参照することはおそらく重要なことであるだろう。

2016年5月29日日曜日

書簡集 11

 五月二十九日

 ……

 古代ギリシアにおいては、白が最も高貴な色であり、その対極には黒があった。このことは、彼らの時代の哲学の著作や、それを註釈した偉大な精神の人々の著作に出てくる例からもよく分かる。耳学問でしかないのだが、彼らにとっての白というのは、私たちにとっての白とは必ずしも同じではないという。彼らにとっての白とは、あらゆる色を内に含んだ白なのであり、光の白なのである。白から黒にかけて全ての色が潜在しているような色なのである。このことを語った老教授は、ギリシアの眩しい太陽のもとにいればきっと彼らがなぜそのように考えたか分かるだろう、と言った。

 黒はどういう色だろうか。髪、土、アスファルト。それと夜。白がギリシアの眩しい太陽の色ならば、黒はその正反対にある色だ。白が光の考察によってその性質が捉えられたのならば、黒も夜の考察によって捉えることにしよう。

 これまで夜は地面から湧き出してくると思っていたが、それは少し違った。夜は隣から染み出してくるのだ。堰を切られた水が溢れてくるように、底から少しずつ夜が染みこんでくる。これは幾何学的に考えてみれば正しい事実だと分かる。光は妨げられなければ直進する。そして、ある一点から発せられた光は、或る球面上を照らすか、その球の一点に接して過ぎ去ってゆく。照らされた球面上に私たちがいるとき昼であり、照らされていない面は夜である。そして、光と球面の接点は夕暮れ時である。夕暮れ時、昼と夜とが直進する光によって切り分けられている。このような場面を想像してみるといい。球面上の影の部分は、その球の自転とともに、夕暮れ時の大地は徐々に夜に浸されていることが分かるだろう。
 夜の「帳」は降りてくるものだが、このことばを考えた人はまだ観察が足りていないのだ。茜色の空が徐々に夜色に変わってゆくのは、空からの作用ではなく、地からの作用なのである。夜の直前は赤いのではない。赤いのはまだ昼から夜へ変わる最初の段階でしかない。赤くなったその後に、私たちは暖かく青い空気を吸い込むだろう。夜は青の向こう側にある色なのだ。黒は、白から赤を経て、青を通過して至ることのできる色なのである。黒は全ての色の混合ではない。ましてや、色彩を欠いた無でもない。青をどこまでも行った先に出会われる色なのだ。

2016年4月1日金曜日

書簡集 10

 四月一日

 君も春の手紙のたびに桜のことを報告されて辟易しているかもしれない。君は少しそういうところがある。春といえば花、という安直な思考を嫌うだろう。しかし、そうした安直な思考が悪いわけではないはずだ。少しばかり桜の話をさせて欲しい。

 風にあおられて、咲いてすぐに散ってしまった桜の一輪がある。道行く際によく目の当たりにする枝の、先端に咲いたやつだ。私の目線とほぼおなじ高さにあるので、いつも気にかけていたが、このあいだ嵐のような夜があって、翌朝見てみると、もう散り落ちてしまっていた。あれほど気にかけて愛でていたが、アスファルトに散らばったどの花弁とも見分けがつかない。こうして、知らなかった花々のうちに埋もれてしまった。やがて茶色く萎れ、気づけばもうなくなってしまっていることだろう。来年同じ場所に咲いたとしても、それはもはや私が気にかけた花とは違う。そのことが、なんだか悔しいように思えるのだ。

 そういえば桜の木のそれぞれにも、やはり個体差があるのだろうか。私などは咲けばどれもおなじ桜の木なのだが、木によって鳥の寄り付き方が異なっている。小鳥は花を花柄からちぎり、蜜を吸って捨てる。そのとき、花はくるくると宙を漂い落ちる。小鳥に人気な木の花は、花弁一枚一枚が舞うのではなく、花が一輪一輪踊るのである。これはなかなか面白い光景で、私も今年までこうした景色があることを知らなかった。ところで花にとって、自らの蜜が甘く、鳥に吸われ、一輪の形をとどめたままくるくると落ちてゆくのと、時を経ながら花弁を一枚一枚落としてゆくのでは、どちらが幸福なのだろう。数的に同じ花が無いことを思えば、考えも花によって異なっていてもおかしくはないだろう。花のそれぞれが、自らの思い通りに地に伏すことができることを望むばかりである。

 ……

2016年1月11日月曜日

スコトゥスと「二重の否定」説

 昨年の夏にちょっとした発表の機会を頂いて、そこでドゥンス・スコトゥスの『命題集註解』Ordinatio 第二巻第三区分第一部第二問を中心にして、スコトゥスにおける個体化の原理の特徴を描き出すことを目指した。現在第一問から第七問までの翻訳をすこしずつ進めている。最近思い出したように訳を再開し、第二問が終わったので考えたことを、前回発表したことを交えつつ、すこしメモ程度に書いておこうと思う。

 Ord. II, d. 3, p, 1 は七つの問題に分かれている。第一問から順に「質料的実体はそれ自身によって、あるいは自らの本性によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体はある肯定的で措定的なものによってそれ自身で個別的であるか」、「質料的実体は現実的な現実存在によって個別的、ないし他のものを個別化する根拠であるか」、「質料的実体は量によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体は質料によって〈これ〉であり、個別的であるか」、「質料的実体は、本性を単一性へと自体的に規定する或る存在性によって個別的であるか」、「諸々の天使が同じ種において複数在ることは可能か」と問われる。前にもここに書いたことがあるが(「ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き」。夏の発表もこれを踏み台にしている。)、第二問においては、ガンのヘンリクスの説として「二重の否定」説が検討される(ヘンリクス自身の個体化の原理についての議論はまたいくらか問題があるが、ここでは触れないことにする)。

 「二重の否定」説は、(1)「分割の否定」と (2)「他のものとの同一性の否定」という二つの否定のことを指している。(1) についてだが、分割といっても、あたかもスイカを六つに割るような分割ではない。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるような、事物の本質に関わる分割のことが考えられている。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるのと同じ分割のしかたで「人間」がソクラテスやプラトンに分割されるとスコトゥスは考えている(『形而上学問題集』第七巻第十三問)。(2) については直観的に理解できるし、前にも書いたのでここでは説明を省く。「分割されず、他のものではない」という二つの否定が個体化の原理である、というのは比較的理解しやすいことであるが、スコトゥスは「しかしながら、それでもこの立場はまったく余分であり、問いに答えていないと思われる。というのも、その立場が措定されても、依然として同じ問いが残るからである」と切り捨てている。

 スコトゥスの批判がいかなるものであったかについては、細かい議論を要するのでまた別の機会に譲ることにしたいが、今回翻訳をしていて気になった箇所があるので、そこを引用しておく。

      Ad argumentum 'in oppositum':
      Licet assumptum sit falsum forte (de quo alias), tamen si verum esset quod 'unum' significaret formaliter illam duplicem negationem, non sequitur quod non habeat aliquam causam positivam per quam insit ei illa duplex negatio, - nam et unitas specifica pari ratione significaret duplicem negationem, et tamen nullus negat entitatem positivam esse in ratione entitatis specificae, a qua entitate positiva sumitur ratio differentiae specificae. Et istud est argumentum bonum pro solutione quaestionis et pro opinione, quia cum in qualibet unitate minore unitate numerali sit dare entitatem positivam (quae sit per se ratio illius unitatis et repugnantiae ad multitudinem oppositam), maxime - vel aequaliter - erit hoc dare in unitate perfectissima, quae est 'unitas numeralis'. 
 「対立する」論拠に対して。
 採用されたもの[=異論の大前提]がおそらく誤っているとしよう(このことについてはまた別の機会に語ることとする)。そうだとしてもしかし、もし、「一」が形相的にあの二重の否定を表示するであろう、ということが真であるとしても、〔その「一」が〕それによってその二重の否定がそのものに内在するところの措定的な或る原因を有していない、ということは帰結しない。実際、同じ議論によって、以下の様に考えられるからである。つまり、種的一性は二重の否定を表示するであろうが、しかしながら、何ものも、そうした措定的存在性から種差の概念規定 ratio が取られるところの種的存在性の概念規定の内に措定的な存在性が在ることを否定することはない。そしてこの論拠こそが問いの解答としても、見解としても優れている。というのも、数的一性よりも小さいいかなる一性においても、(自体的に、一性の、そして反対する多数性に対する相反の根拠であるところの)措定的な存在性が在りうるのだから、とりわけ、あるいは同等に、「数的一性」であるところの、最も完全な一性においても、こうしたことが在りうるであろう。(Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 58, 下線は引用者による。)
 発表では、スコトゥスがガンのヘンリクスの「二重の否定」説を、個体化の原理としては拒否しつつも、それに修正を加え、個別者が有する個体としての性質、つまり「個体性」の理解としては生き残っていると考えた。かなり直観に依拠した議論になってしまっていたが、それをスコトゥスのテクストから読むとしたら、この箇所だろうか(細かい文法事項に疎い筆者は、接続法でも、未完了形になっていることに少し不安を覚える)。ここは種的一性と平行的に語られており、理解もしやすい。

 以上で確認したように、第二問において、スコトゥスが個体化の原理としての「二重の否定」説を拒否しつつも、他方で個体性としての修正「二重の否定」説(細かい議論を省いたため、どういう動機でどのような修正が施されるべきであったかについては触れられていないが)を受け入れていると考えるならば、修正「二重の否定」説が、「個体」概念を根本のところで形作る基礎の一端となるわけだから、第二問は(スコトゥスが Ord. において個体化を語ってるのが Vatican 版で 130 ページあるうち、ほんの 8 ページだけという)その分量的な小ささとは裏腹に、非常に重大な位置を占めていると言える。先にブログに書いた第四問についての理解も、第二問を踏み台にしているところがある。
 あるいは、第二問同様、個体化の原理としては否定された諸々の見解は、修正されて個体性(或いは、個体性とまでは言えないが、ある意味で「個体」理解に強く関与するような概念)として、スコトゥスによって取り込まれているかもしれない。この点はスコトゥスの個体化の原理について、とりわけ Ord. を読む上で注意されるべきではなかろうか、と考えている。