2020年6月18日木曜日

初期印刷本を読む

 必要があってガンのヘンリクスの Summa Quaestionum Ordinarium の一部に目を通した。この本は 1520 年にパリで出版され、その後、1953 年に Franciscan Intstitute が二巻本のリプリント版を出版している。ガンのヘンリクスの著作は、現在 Leuven Univeristy Press が 1979 年より全集の批判的校訂版出版を開始している。全四十六巻が予定されており、現在十七冊刊行されている。今回参照した箇所は、まだ全集が出ていない箇所であったので、1520 年に出版されたもののデータをインターネット上で見つけて読むことにした。

 1520 年の出版なので、印刷本としてはかなり初期のもので、中世の写本のように、独特の略字を用いて多くの単語が縮約されている。略字が何を表しているのかについては、ある程度はインターネット上の、日本語で書かれた情報だけで読むことができる(インキュナブラ小辞典)が、略字は種類が豊富であったり、頻繁に用いられるためにかなり大胆に省略されているものの、それがかなり専門的なテクストにしか現れないため、必要な情報がなかなか得られないということもある。ここでは、パッとは分からなかった二例の読み方を残しておこうと思う。

 一例目は右欄の Q の数行上、下線の文字である。その周辺のテクストは以下のとおりである。「そしてそれゆえ、完全な認識は、認識するものに対する認識するものの完全な類似化からしか進行せず、被造物はそうした類似化を、神との関連で私たちのうちに作ることはできないのだから、神が何であるかということについての完全な認識は、諸々の被造物からは有され得ない。ところで、被造物はすべていっそう劣った段階である。[q?] 被造物を通じて神が何であるかを完全なしかたで認識するための完全な類似化が生じるためには(?)」(« Et ideo cum perfecta cognitio non procedat nisi ex perfecta assimilatione cognoscentis ad cognitum, quam non potest facere in nobis creatura respectu dei, perfecta cognitio eius quod quid est deus, ex creaturis haberi non potest: sed omnis creatura est gradus multo inferioris [q?] ut per ipsam fiat perfecta assimilatio ad perfecte cognoscendum quid deus est »).


 なんとなく比較をしていそうな雰囲気だが、quam ut というつながりはあまり見たことがない気がしたのでよく分からなかったが、Dictionary of Medieval Latin from British Sources (logeion) を参照すればそういう例があるという。quam の用例の 6c で (introducing ut clause w. subj. after compar.) too... to... というものがあるらしい。なので、上の日本語訳も [q?] を省いてそのまま通じるようなものになりそうだ。(この例が分からなかったのは完全に不勉強のせいだ。)
 (ただし、底本の句読法について若干疑問は残る。« sed omnis... » 前後で「神の何であるかを被造物から得ることはできない」という情報が重複しているように思われるからである。それは « sed omnis » の前にコロンが置かれており、強い区切りのように見えてしまうからかもしれない。内容としては、最終的に、「そしてそれゆえ、完全な認識は、認識するものに対する認識するものの完全な類似化からしか進行しないが、被造物はそうした類似化を、神との関連で私たちのうちに作ることはできないのだから、神が何であるかということについての完全な認識は、諸々の被造物からは有され得ず、むしろ被造物はすべて、被造物を通じて、神が何であるかを完全なしかたで認識するための完全な類似化が生じるためにはいっそう劣った段階である」のように、non... sed... のような対として理解するほうが穏当か?

 二例目は左欄の S から数行下がったところにある下線の部分である。その周辺のテクストは以下のとおり。「第一のしかたで考察された抽象は、例えばこの善やあの善からの善の抽象のように、個的なものから普遍的なものの抽象である。というのも、[sm phm?] 普遍的なものとは多くのものものにおける一なるものだからである」« Alio modo ut absolutae a suppositis. Considerata primo modo, est abstractio universalis a particulari, ut boni ab hoc bono et ab illo: quia [sm phm?] universale est unum in multis ».


 連続する単語が著しく縮約されているため、こちらも読めるようになるまでに少し時間がかかったが、分かってみればそんなに大したことはない。「普遍的なものとは多くのものものにおける一なるものである」という表現が鍵となる。これは、中世においてアリストテレスの権威として広く受け入れられていた普遍的なものの規定である。そうなると、この縮約形も「哲学者によれば」« secundum philosophum » であるとわかる。この表現は、中世の哲学のテクストならば何度でも出てくるものなので、「わかるでしょ」ということでたった五文字にまで縮約されてしまったのだろう。

 話は初期印刷本から逸れるが、科学研究費を用いてフランスの Troyes の図書館に行き、『スコトゥスの論理学』Logica Scoti というテクストの写本を読んだときに « 2m »(正確には m は上付き文字のように書かれていた)という略字を見た。文脈からして « secundum » としか読めないものであった。前置詞の secundum は確かに数字の 2 を意味する secundus に由来するそうであるが、前置詞を数詞に遡って、しかもアラビア数字を用いて大幅に縮約するというのは大胆な気がして面白く思った。

2017年3月31日金曜日

試訳集

 以下では作成した翻訳の pdf を公開しています。ここにあるものも、試訳ということで、今後修正されていくと思います。日付は最終アップデート日を示しています。誤訳、誤植等発見されましたらご連絡ください。
 更新情報が煩雑になってきたので直近 5 件のみ表示することにしました。

2023 年 03 月 28 日:『命題集註解』(オルディナティオ)第一巻第八区分第一問から第三問 追加
2022 年 08 月 05 日:『命題集註解』(オルディナティオ)第一巻第三区分全訳 追加
2021 年 05 月 08 日:『命題集註解』(オルディナティオ)第一巻第二十二区分全訳 追加
2021 年 03 月 17 日:『形而上学問題集』第二巻第二、三問 追加
2020 年 05 月 17 日:『命題集註解』(レクトゥラ)第二巻第三区分第一部第二、三問 追加

ドゥンス・スコトゥス

『イサゴーゲー問題集』Quaestiones in librum Porphyrii Isagoge

  • 全訳(全三十六問+付録) 2017 年 03 月 31 日

『命題論第一巻問題集』Quaestiones in primum librum Perihermenias


『形而上学問題集』Quaestiones super libros Metaphysicorum Aristotelis

第二巻

第七巻

『命題集註解』(オルディナティオ)Ordinatio

第一巻


第二巻

  • 第三区分

『命題集註解』(レクトゥラ)Lectura

第二巻


『パリ報告 I-A』Reportatio Parisiensis Examinata I-A

第一巻
  • 第三十三区分
      • 全訳(全三問) 2019 年 10 月 28 日

『スコトゥスの論理学』Logica Scoti


『任意討論集』Quaestiones Quodlibetales

2016年6月21日火曜日

「実在」ではないどこか

したがって、これらの諸根拠の結論を認めよう。〔つまり、その結論は以下のとおり。〕まさに固有な特質 ratio によってであるように、〈この〉石に内在する措定的な或るものによって、下属する部分へと分割されることがそれに相反するということは必然である。そして、その措定的なものは自体的に、個体化の原因であると言われるところのものであろう。というのも、個体化ということによって、私は、分割不可能性ないし、分割可能性への相反を理解しているからである。(Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 57).
個別者とは何か。どこにいるのか。ふだん私たちが目にするものすべては個別者である。世界は個別者によって満たされている、という思考は、(一部の哲学者を除き)多くの人びとによって受け入れられることであろう。

 中世において広く議論された「個体化の原理」を考える際に、「個別者とはなにか」ということを考えておくことは、Gracia も指摘しているとおり重要なことである。「個別者は述語の束である」と考える哲学者は、おそらく「個体化の原理は質料である」と考える方向へは向かわないであろう。その哲学者にとって「個別者とはなにか」ということが、彼の個体化の原理の探求において重要な前提であると考えるのはおそらく正しいことであるといえる。

 上に引用したドゥンス・スコトゥスは、個体化を「下属する部分への分割への相反」を個体化として考えていた。「下属する部分への分割」とは、類を種へ、種を個別者へと分けるような分割のことである(詳しくは「スコトゥスと「二重の否定」説」を参照)。スコトゥスにとって個別者とは「人間という種に属するソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはなく、また人間という種に属する別の個別者であるプラトンから区別される」という例で表されるようなものである。ここを捉えれば、先にリンクした記事においても述べられたことであるが、個別者はこのような「二重の否定」(厳密に言えば、ヘンリクスに帰されている説が「二重の否定」であり、スコトゥスはそれを修正したしかたで受容しているのだから、「修正二重の否定」説と呼べる)を伴うものである。仮に「個別者」を「「修正二重の否定」説によって記述されるようなもの」として考えられるとしよう。そのとき、スコトゥスはそのような個別者を析出させる原理を個体化の原理としなければならないだろう。それは「述語の束」でも「質料」でもあり得ない。この問題に関するスコトゥスの特徴はこの点に存すると考えられる。

 上記引用において、スコトゥス自身は「ソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはない」という事態が個体化である、と考えている。このことは更に考察されるべきである。
範疇の体系に自体的に属するところのものはみな、その体系には決して属することの無いもの全てを除いて、その範疇の体系の内に在る。......それゆえ、本質の概念規定のもとにあるものを劃然と考察することで、類において最高のものが見いだされるように、中間の諸々の類、そして種や種差もが見いだされる。さらにそこでは、現実的な現実存在が全きしかたで取り除かれることで、最下位のもの、すなわち単一なものが見出される。このことは明証的に明らかである。というのも、「人間」が形相的に現実的な現実存在を含まないのと同様、「〈この〉人間」もそうだからである。(Ibid., q. 3, n. 63).
スコトゥスは、動物を人間へとする分割と、人間をソクラテスやプラトンへとする分割との間に根本的な差異を措定していない。そのことを考えると、「動物―人間―ソクラテス」のそれぞれは、なんらか共通の存在論的ステータスを有していなければならない。このことに関して、二通りの見解が可能であろう。すなわち、(1) 「動物」や「人間」といった類や種が、実在するソクラテスの方に引きずられ、何らか「実在的」というステータスを帯びることになるか、或いは (2) ここで言われているソクラテスが、必ずしも実在しているソクラテスではなく、類や種といった概念へと引きずられているか、このいずれかである。上記引用によれば、(2) の方針を採っているように思われる。スコトゥスが思考している「個別者」は、必ずしも実在を含んでいるわけではない。こうした「個別者」をどのように位置づけるか。類や種が論理学的志向 intentio logicalis として、すなわち概念として位置付けられることを考えて、仮に「論理学的」と位置づけることにする。

 論理学的個別者を考えることは、彼の個体化の原理についての学説に再考を迫る。個体化が「下属する部分への分割への相反」であり、下属する部分への分割というのが、類を種へ、種を個別者へ、という仕方で、「論理学的」なターミノロジーを用いて語られることを考えれば、個体化を「実在」の領域に閉じ込めてしまうことには問題があると考えられる。彼の個体化を考えるならば、ここでは「論理学的」と名付けた、実在ではないどこかを想定する必要があるだろう。そこを「論理学的」と名付けることが正当であるのかどうかもまだ疑われることであるが。

 一般に、ある哲学者の個体化の原理を考察する際には、その哲学者が個別者に関してどのような見解を有しているのか、ということを見ることは有益である。それどころか、必要不可欠であるとも思われる。「個体化の原理」ということばこそはひろく流通していたものであるが、少なくとも中世では、そのことばをどう解するかということにおいて、一致があったわけではない。個体化の原理の探求が、どういうことがらに関わっており、その当の哲学者の体系においてどのように位置付けられるか、ということをみる際、その哲学者の個別者についての理解を併せて参照することはおそらく重要なことであるだろう。

2016年1月11日月曜日

スコトゥスと「二重の否定」説

 昨年の夏にちょっとした発表の機会を頂いて、そこでドゥンス・スコトゥスの『命題集註解』Ordinatio 第二巻第三区分第一部第二問を中心にして、スコトゥスにおける個体化の原理の特徴を描き出すことを目指した。現在第一問から第七問までの翻訳をすこしずつ進めている。最近思い出したように訳を再開し、第二問が終わったので考えたことを、前回発表したことを交えつつ、すこしメモ程度に書いておこうと思う。

 Ord. II, d. 3, p, 1 は七つの問題に分かれている。第一問から順に「質料的実体はそれ自身によって、あるいは自らの本性によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体はある肯定的で措定的なものによってそれ自身で個別的であるか」、「質料的実体は現実的な現実存在によって個別的、ないし他のものを個別化する根拠であるか」、「質料的実体は量によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体は質料によって〈これ〉であり、個別的であるか」、「質料的実体は、本性を単一性へと自体的に規定する或る存在性によって個別的であるか」、「諸々の天使が同じ種において複数在ることは可能か」と問われる。前にもここに書いたことがあるが(「ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き」。夏の発表もこれを踏み台にしている。)、第二問においては、ガンのヘンリクスの説として「二重の否定」説が検討される(ヘンリクス自身の個体化の原理についての議論はまたいくらか問題があるが、ここでは触れないことにする)。

 「二重の否定」説は、(1)「分割の否定」と (2)「他のものとの同一性の否定」という二つの否定のことを指している。(1) についてだが、分割といっても、あたかもスイカを六つに割るような分割ではない。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるような、事物の本質に関わる分割のことが考えられている。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるのと同じ分割のしかたで「人間」がソクラテスやプラトンに分割されるとスコトゥスは考えている(『形而上学問題集』第七巻第十三問)。(2) については直観的に理解できるし、前にも書いたのでここでは説明を省く。「分割されず、他のものではない」という二つの否定が個体化の原理である、というのは比較的理解しやすいことであるが、スコトゥスは「しかしながら、それでもこの立場はまったく余分であり、問いに答えていないと思われる。というのも、その立場が措定されても、依然として同じ問いが残るからである」と切り捨てている。

 スコトゥスの批判がいかなるものであったかについては、細かい議論を要するのでまた別の機会に譲ることにしたいが、今回翻訳をしていて気になった箇所があるので、そこを引用しておく。

      Ad argumentum 'in oppositum':
      Licet assumptum sit falsum forte (de quo alias), tamen si verum esset quod 'unum' significaret formaliter illam duplicem negationem, non sequitur quod non habeat aliquam causam positivam per quam insit ei illa duplex negatio, - nam et unitas specifica pari ratione significaret duplicem negationem, et tamen nullus negat entitatem positivam esse in ratione entitatis specificae, a qua entitate positiva sumitur ratio differentiae specificae. Et istud est argumentum bonum pro solutione quaestionis et pro opinione, quia cum in qualibet unitate minore unitate numerali sit dare entitatem positivam (quae sit per se ratio illius unitatis et repugnantiae ad multitudinem oppositam), maxime - vel aequaliter - erit hoc dare in unitate perfectissima, quae est 'unitas numeralis'. 
 「対立する」論拠に対して。
 採用されたもの[=異論の大前提]がおそらく誤っているとしよう(このことについてはまた別の機会に語ることとする)。そうだとしてもしかし、もし、「一」が形相的にあの二重の否定を表示するであろう、ということが真であるとしても、〔その「一」が〕それによってその二重の否定がそのものに内在するところの措定的な或る原因を有していない、ということは帰結しない。実際、同じ議論によって、以下の様に考えられるからである。つまり、種的一性は二重の否定を表示するであろうが、しかしながら、何ものも、そうした措定的存在性から種差の概念規定 ratio が取られるところの種的存在性の概念規定の内に措定的な存在性が在ることを否定することはない。そしてこの論拠こそが問いの解答としても、見解としても優れている。というのも、数的一性よりも小さいいかなる一性においても、(自体的に、一性の、そして反対する多数性に対する相反の根拠であるところの)措定的な存在性が在りうるのだから、とりわけ、あるいは同等に、「数的一性」であるところの、最も完全な一性においても、こうしたことが在りうるであろう。(Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 58, 下線は引用者による。)
 発表では、スコトゥスがガンのヘンリクスの「二重の否定」説を、個体化の原理としては拒否しつつも、それに修正を加え、個別者が有する個体としての性質、つまり「個体性」の理解としては生き残っていると考えた。かなり直観に依拠した議論になってしまっていたが、それをスコトゥスのテクストから読むとしたら、この箇所だろうか(細かい文法事項に疎い筆者は、接続法でも、未完了形になっていることに少し不安を覚える)。ここは種的一性と平行的に語られており、理解もしやすい。

 以上で確認したように、第二問において、スコトゥスが個体化の原理としての「二重の否定」説を拒否しつつも、他方で個体性としての修正「二重の否定」説(細かい議論を省いたため、どういう動機でどのような修正が施されるべきであったかについては触れられていないが)を受け入れていると考えるならば、修正「二重の否定」説が、「個体」概念を根本のところで形作る基礎の一端となるわけだから、第二問は(スコトゥスが Ord. において個体化を語ってるのが Vatican 版で 130 ページあるうち、ほんの 8 ページだけという)その分量的な小ささとは裏腹に、非常に重大な位置を占めていると言える。先にブログに書いた第四問についての理解も、第二問を踏み台にしているところがある。
 あるいは、第二問同様、個体化の原理としては否定された諸々の見解は、修正されて個体性(或いは、個体性とまでは言えないが、ある意味で「個体」理解に強く関与するような概念)として、スコトゥスによって取り込まれているかもしれない。この点はスコトゥスの個体化の原理について、とりわけ Ord. を読む上で注意されるべきではなかろうか、と考えている。

2015年9月26日土曜日

ライプニッツ『個の原理について De Principio Individui』に関する覚書

 ライプニッツの学士論文であるところの『個の原理について』De Principio Individui の読書会が一通り終わったので、スコトゥスと関わるいくつかのことを書き留めておく。

 版によって微妙に構成が異なってはいるものの、(おそらくどの版も)二十六の節からなっている。スコトゥスへの批判に、その大部分、すなわち第十六節から第二十六節までが割かれている。
 主要な論点は、「このもの性」Haecceitas と「形相的区別」distinctio formalisである。いくつかの議論は、普遍に関する立場に関して、そもそも前提が食い違っているということから出てくるものである(たとえば、第二十節に「種は形相や質料によっても、附帯性やその他のものによっても特定化されない。したがって、 「このもの性」が残される。反論。いかなるものによっても、種は特定化されない。というのも、種は精神の外には全く無いからである」といったような議論がある。第二十節・第二十一節はこれと同様の議論がいくつか挙げられている)。

 ライプニッツによる批判で重要な論点は次のようなものであろう。以下に、『個の原理について』第二十四節を引用する。
III. もし形相的区別が認められるのならば、このもの性は滅ぶ ruit. ところで前件は真である。従って云々。証明を行う前に、この区別について何らか述べられねばならない。ところでそれは Stahl., Comp. Metaph., c. 23, Soncin., l. 7, q. 35, Posnaniensis, I. Sent., d. 34, dubio 64 で見て取られうる。
 この区別は一般に、事象的区別と観念的区別の中間のものとしてスコトゥスに帰される。そういうわけで、彼の追随者たちは形相主義者と言われる。この区別によってスコトゥスは、神的なものにおける諸属性やペルソナ的諸関係が神の本質から区別され、事物の何性が事物間で、そして認識されたエッセにおける神から区別され、また上位の述語が下位の述語から、類が種差から、本質が現実存在から区別されると考えた。Rhada はこの区別を次のように説明した。すなわち、〔この区別は〕基体においては同一化されつつ、他方で知性への秩序においては相違する二つの事象性ないし形相性の間にあり、観念的区別からは異なっている。というのも、観念的区別は、その区別以前に現実態における精神の作用を要求するからである。だが、この〔形相的〕区別が現実に用いることにおいて適用されたとき、スコトゥスに追随する人々は、驚くほどに曖昧で一貫していない。というのも、もしこのもの性が種から、知性を動かすということが判明に適合したという点でのみ異なっているのであれば、このもの性は、なんと悪しく個体化の原理へともたらされるのであろうか。というのも、それは知性から切り離すことによって探求されねばならないのだから。したがって、彼らのことばのもとでは、より多くの何らかのことが隠されているのは必然である。それは何であれ馬鹿げている。というのも、知性が切り離されることで異なっているとするや否や、それらは互いに同一化されないからである。
 スコトゥスは本質とこのもの性の間に形相的区別を敷いている。知性によって認識されるのは本質の側のものであり、それとは形相的に区別されるこのもの性は、人間知性によっては認識されない。それでは、スコトゥス主義者たちは人間知性の対象とは成り得ないそれをいかにして探求しているのか。人間知性の対象とは成り得ないものを原理として措定することに問題は無いのか。そのように議論されていると考えられる。この点に関しては、このもの性の認識に関する問題から、スコトゥス的なアプローチをとって再反論を試みるべきであると思う。もちろん、この箇所のライプニッツに記述は、Rhada に依っているところが大きい。私自身、スコトゥスの形相的区別に関して明確な理解があるわけではないのだが、Rhada の説明の「〔この区別は〕基体においては同一化されつつ、他方で知性への秩序においては相違する二つの事象性ないし形相性の間にあり」sit inter duas realitates seu formalitates in subjecto identificatas, diversas vero in ordine ad intellectum というところが少し問題があるような気がする(そしてライプニッツの批判もこの点によせられていると思われる)。私の雑駁な理解では、形相的区別は、いわばこの二つの層のさらにその間に措定されるようなものであると思われる。すなわち、知性との関わりにおいて異なっているということは、事物の側でも、基体において同一でありつつ、その中で相違している(山内先生の訳語を借りれば)存在実質の次元の話であるのではないのだろうか、ということである。しかし「知性が切り離されることで異なっているとするや否や」simulatque enim praeciso intellectu differunt という記述は、知性との関わりという次元ではなく、事物の側での区別を指しているのだろうか。いずれにせよ、ライプニッツ自身がそれほどことばを費やして語っていないせいで、難解となっている。

 さしあたりスコトゥス絡みでやるべきことは、
  • Rhada の形相的区別の説明は、スコトゥスによる記述から十分に導けるものであるかどうか。
  • 導けるのならば、ライプニッツによる批判に対してスコトゥスはどのようにこたえるべきだろうか。
  • 導くことができないならば、Rhada の説明のどこがまずいか。またそのうえでライプニッツのスコトゥス批判に関してはいかに対処すべきか。
やることは多い。

 『個の原理について』の前文訳をいま用意している。どこかに載せられたらとても良い。できなかったらネットにアップロードでもするつもり。

 いろんな方が訳の検討を手伝ってくださるそうです。大変恐縮です。どうもありがとうございます。

2015年5月31日日曜日

読書会のご案内

2016 年 12 月 8 日更新。

 現在、私の方で開催している読書会のうち二つに関して、宣伝も兼ねてここに詳細を記しておきますので、気になったものがあれば下記の連絡先までお願いします。

- 個体化研究会

個体化研究会では、中世において盛んに議論された「個体化の原理」を扱う各哲学者のテクストを原典で読み、そこに現れている多様な議論を理解していくことを目的としています。
 Francisco Suárez, Disputationes Metaphysicae, V をはじめから読んでいます。

・日時:参加者で相談して決定致します。水曜日になることが多いです。
・場所:本郷キャンパス文学部二号館の三友館にて。参加希望の方で、場所がわからない方は以下の連絡先までお願いします。
・テクスト:参加希望者に配布致します。

- スコトゥス読書会

 こちらの会では、後期スコラ哲学の代表人物の一人であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスのテクストを読んでいきます。
 Johannes Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 7 を Vatican 版全集で読んでいきます。テクストをお持ちでない方はこちらで用意いたします。内容は、天使に関する個体化の問題となっております。

 毎回だいたい Vatican 版で 3, 4 ページほど進むことを予定しております。

・日時:参加者で相談して決定します。
・場所:オンラインで開催予定です。
・テクスト:参加希望者に配布致します。

以上の会に関心がおありの方は、以下のアドレスまでご連絡下さい。お手数ですが、連絡の際はアドレスの ( ・`ω・´) を @ に変えて送信ください。

七草しろ
nanakusa.shiro ( ・`ω・´) gmail.com

2015年3月17日火曜日

realitas 概念についての覚え書き

 中世の哲学には理解し難い用語が山のように出てくる。その中の一つが realitas である。これは「事象性」とか「実在性」とかといった訳が与えられることが多い。英語に直訳すると reality となるが、中世哲学の文脈ではそのまま「リアリティ」と訳すとよくわからないことが多い。いくつかの文献の中で出会われた realitas 概念について、すこし纏めておこうと思う。

 山内志朗『存在の一犠牲を求めて』におさめられた「スコトゥス哲学・用語解説」における「事象性 (realitas)」の項には次のようにある。
……事象 (res) の抽象名詞だが、そのニュアンスは翻訳不可能である。「事象成分」「実在性」などといった訳語もある。「実在性」と捉えると誤解しやすい。実在性やリアリティという含意はあまりなく、そういうものの手前にあるものが realitas である。「事象を構成する規定性」、平たくいえば「性質」のことである。……
「ある事象 res を構成する規定的部分 」のように理解可能であると思われる。スコトゥスの実際の語り口をすこし見てみよう。以下では「存在性」 entitas ということばが使われているが、八木雄二によれば entitas と realitas はほぼ同じ意味で使われる(八木雄二『スコトゥスの存在理解』、付録 p. 35, 註 118 参照)。
複合体が本性であるかぎりにおいて、(それによって形相的に〈このもの〉となる)個的存在性を含まないように、質料も「本性であるかぎり」(それによって〈この〉質料となる)個的存在性を含まず、また、形相も「本性であるかぎり」はそうした存在性を含まない。 (Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 6, n. 187).
スコトゥスによる、質料的実体の個体化をめぐる議論のほぼ結論部で提示される一節である。ここで述べられている内容に関しての詳細な説明は省くとして、簡単にいえば、「個的存在性を含んでいるものは個別者である」という文脈で語られている。そのとき、個的存在性は個別者という事象 res を構成する部分であると考えられることになろう。

 最近読んだ本で、すこし気になったところも纏めておく。
たんに「思考に由来する〈もの〉」にすぎないものは決してこの世界に現実に存在せず、現実に存在しうる可能性もない〈もの〉である。そのような〈もの〉は知性の対象とはならず、ただ想像力にのみ依存する虚構であり、「現実性」 (realitas) を持たないのである。また、そのような〈もの〉は有でもない。すなわち、「有性」 (entitas) を持たないものである。(加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』、 p. 227. )
ここでの用法は、やや「リアリティ」に寄っているように思われる。出典も併せてみておこう。
... res sive aliquid, sic consideratum ut nihil sit ei oppositum nisi purum nihil, quod nec est nec natum est esse, neque in re extra intellectum, neque etiam in conceptu alicuius intellectus, quia nihil est natum movere intellectum nisi habens rationem alicuius realitatis. (Henricus de Gandavo, Quod. VII, qq. 1 et 2 (ed. G. A. Wilson, 1991, pp. 26-27). )
このヘンリクスのテクストは加藤雅人、前掲書における付録 p. 86, 註 66 より引用した。以下に筆者による訳を付しておく。語彙レベル・概念レベルで様々に誤りがあろうので、そのときは指摘いただきたい。
〈もの〉ないし或るものは、次のように考察されたものである。すなわち、純粋な無 purum nihil を除いては何者もそれに対立しないものである。その純粋な無とは、在らず、在らしめず、知性の外なる事象においても、さらに或る知性に属する概念においても〔無い〕。なぜなら、或る事象性という根拠 ratio 無くしては知性を動かすということは決して生じないからである。
ここでの ratio をどう解するかによってかなり文意が変わりうるであろうが、上で引用した加藤 op. cit. の論脈に寄せて、とりあえず根拠と訳した。 ここで〈もの〉といわれる res は端的な無、純粋な無と対立する概念である。そして、加藤によれば、純粋な無として理解されるのが、ヘンリクスによる〈もの〉の三つの区分のうち「思考に由来する〈もの〉」であり (Ibid. pp. 225f.), その具体例として「金の山」とか「山羊鹿」とかといった「虚構的概念」の例が挙げられている。こうしたものは realitas を持たず、また知性の対象にもならない (Ibid. p. 226.). ヘンリクスの枠組みにおいて realitas を有するのは、加藤によれば、「理念に由来する〈もの〉」と「現実に存在する〈もの〉」である。後者については文字通り現実に存在するものであり、前者は何性 quidditas と呼ばれ、スコトゥスの枠組みに引き寄せた時、共通本性 natura communis と呼ばれるものと解釈してよいと考えられるものであろう(何性に、何らかの仕方でその存在の根拠を付与しているというのはやや興味深いと思われる)。realitas 概念を考える際に、「思考に由来する〈もの〉」と「理念に由来する〈もの〉」との境界を考えることは有益なことであるだろう。

 「思考に由来する〈もの〉」の例を見てみれば、「虚構的」と言われつつも、それを「理念に由来する〈もの〉」と切り分けるうまい視点は見つけ難い。「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念は、端的に矛盾しているわけではない(こうした事柄について、哲学史のあちこちで様々に語られているのであろうが、不勉強と貧弱な記憶力のせいでこれを書いている際にはうまい解決があったかどうか定かではない。ヘンリクスのここの記述を理解するために、いま二つの解釈を有している。 1. 「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念には、実は矛盾が含まれているのだ、という解釈。例えば、「山羊」と「鹿」は種が異なるのであるから、それら両者の種の特徴を備えた一つの種は考えられない、ということ。とはいえ、これはあまりうまくいっていないように見える。 2. なんであれ、「思考に由来する」と言われるものはそもそも realitas を有さない。たとえば、鉛筆やハサミといった概念も、それが「思考に由来する」限りにおいては realitas を有していない。ただし、鉛筆やハサミといった概念は、私達が現実世界において出会うことのできる個物から得ることができるので、そうした側面からそれらの realitas を十分に考えることができる、ということである。いずれにせよ、ヘンリクスのテクストに基づいて理解されねばならない……のだから読まねばならない!)。
 ヘンリクスが「理念に由来する〈もの〉」は可能的に存在すると述べているといわれることとあわせて考えると、「思考に由来する〈もの〉」に realitas が無いというのは、それが可能的にであれ存在することはないということになろう。ここでは、 realitas が「存在の根拠」のように働いているように思われる。あるいは純粋な無に対抗する力のようなものか。ここではたしかに「リアリティ」の響きが感じられるような気がする。はじめに引いた山内による理解の枠から、すこしはみ出るような部分もあるように思われる。

 雑駁にいろいろと書き並べてみたが、 realitas 概念はやっぱりよくわからない。